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ボビー・マルカーノという男

1951年、ベネズエラで生まれた
本名ロベルト・マルカーノは
カラカス高校を卒業後、ベネズエラの球団
ラ・ガイラから
アマチュアFAにより、シンシナティ・レッズに
入団しましたが
身長177センチ、体重75キロと小柄な若者は
結果を残すことが出来ずにいました。

その後インディアンスの3Aポートランや
エンゼルスの3Aソルトレークシティなど
マイナーリーグを転々として迎えた、1974年、
ついにその実力が開花、打率3割2分4厘、
12本塁打、91打点の好成績を残します。

その頃、阪急ブレーブスの監督であった上田氏は
伝説のスカウトと呼ばれた現役時代の同僚
フィーバー平山氏がエンゼルスのスカウトとして
従事していた事から
走攻守揃ったマルカーノの情報を入手、
チームの助っ人として
是非とも日本に連れていきたいと交渉に乗り出すと
エンゼルスもトレードマネー欲しさに
オファーを快諾、勝手に話が進んでいきました。

球団から呼び出されたマルカーノは、いよいよ
メジャー昇格の話かと希望に胸を膨らませて
いましたが
球団幹部から伝えられたのは
「メキシカンリーグに行くか
日本のプロ野球に行くか
どちらかを選べ」というものでした。

エンゼルスとしては必ず阪急ブレーブスを
選ぶような状況を作ろうと絶対に選択しない
メキシコ行きを持ち出してマルカーノに
日本行きを選ばせるよう仕向けたのです。

夢を諦めきれないマルカーノはショックを受け、
このままマイナーに残ってメジャーリーグを
目指したいという気持ちがありましたが
妻や兄弟たちを養うために現在の年俸330万円の倍以上、
750万円をもらえる阪急ブレーブスは非常に
魅力的であり、日本行きを決断、海を渡ってきたのでした。

日本で成功してからメジャーに再挑戦するという
野望を抱えたまま来日した24才のマルカーノは
日本の練習やルールに
全て従い、順応していこうと努力を重ねます。

オープン戦から好成績をあげ、迎えた
1975年4月5日の開幕戦、
6番セカンドで先発出場、翌6日には初安打も
記録するなど1年目からレギュラーに定着すると
オールスターゲームにも初選出され、
6打数4安打の大活躍を見せました。

シーズン後半も調子を落とすことなく
打率2割9分8厘、23本塁打、71打点の好成績で
リーグ優勝に貢献、
さらにベストナインとゴールデングラブ賞を
同時受賞するなど
まさに攻守にわたって大きな戦力となったのです。

迎えた広島東洋カープとの日本シリーズでは
全試合で安打を放つなど、打率3割4分6厘、1本塁打と
大暴れ、4勝0敗2引き分けという圧倒的な強さで
球団史上初の日本一の原動力となり、
上田監督もマルカーノの勝負強さと高い守備力を
最大の勝因として挙げるほどでした。

翌1976年は5番に抜擢され、
2年連続ゴールデングラブに打率2割7分1厘、
25本塁打、64打点と前年同様リーグ2連覇に貢献すると
長嶋ジャイアンツとの日本シリーズでも打率3割5分7厘と
大舞台で無類の強さを発揮して2年連続日本一を手にします。

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