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【吉井理人】近鉄バファローズ時代は一匹オオカミの喧嘩投法で内角を攻めまくり、憧れのメジャーリーガーを経て筑波大学大学院で修士課程を卒業する理論派に!その後は優勝請負人コーチに!

割引あり

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、吉井理人さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=gadd4qhVKKk&t=70s

和歌山県に生まれ、一時代を築いた名投手、東尾修と同じ
小学校、中学校を卒業、高校も同じく県立箕島高校に進学します。

中学生時代は円盤投げの選手として、近畿大会2位に
なったこともある、
強肩を生かして、箕島高校野球部に入部すると
2年時、春の選抜に出場。準々決勝で甲子園初登板を果たします。
翌年にはエースとして夏の甲子園に出場するも、
のちに日本ハムファイターズに入団する津野浩率いる
高知商業高校に敗退し、涙をのみました。

1983年、秋のドラフト会議で近鉄バファローズから2位指名を
受け入団。同郷の先輩、東尾と同じ背番号21を希望したのでした。

プロ入りから3年の大半は二軍で過ごしましたが
その頃の近鉄は、誰もがメジャーかぶれしていたと言います。

その影響もあってか、昭和61年の日米野球で来日した
バリバリのメジャーリーガー、
ホセ・カンセコ、カル・リプケンジュニア、トニー・グウィンらの
桁違いのパワーを目の当たりにし、
いつか、こいつらと勝負したいと夢を募らせていったのです。

プロ5年目、
名将、仰木監督が就任したことでクローザーに大抜擢されます。

すると、その実力が開花。
この年から3シーズンを抑え投手として
合計59セーブの活躍を見せ、最優秀救援投手のタイトルも獲得するなど
抑えの切り札となっていきました。

実力がついてくると同時に夢を実現するべく、
毎年、契約更改のたびにメジャーリーグ移籍を訴えますが、
当時は前例も制度もない時代。
球団からは、アホちゃうか、の一言で話は打ち切られるのでした。

1988年10月19日には今も語り継がれる優勝のかかった名勝負。
ロッテとのダブルヘッダーでリリーフ登板、
悔しい思いも経験した翌年、ついにリーグ優勝を果たします。

日本シリーズでは
第2戦、3戦、5戦、6戦、7戦に登板、
そのうち3試合を無失点に抑えるなど
全力で戦い抜いたのでした。

そこから2つの運命的な出会いが訪れます。

1つは日本人メジャーリーガーのパイオニア、野茂英雄との
出会いです。

身長188センチ、体重95キロのガッシリとして体格から投げ込む
150km近いストレートにシュートが武器の吉井でしたが
持ち球に三振を取るための縦の変化球がないことに
弱点を感じていたとき、

自身で馬主になるほど好きな競馬を野茂に教えた見返りに
野茂直伝のフォークボールを教わり、奪三振が飛躍的に
増えていきました。

その後、ヤクルトに移籍したことで
野村克也監督と2つ目の出会いを果たします。

強打者に対して、体スレスレのシュートを投げ込み、
デッドボールを当てることも躊躇せず、
文句言うやつには、もう一球当てたろうか。と言い返すほど
キレやすく、激情型と言われたピッチングスタイルでしたが、

野村監督の野球論に触れているうちに、理論や
ミーティングの大切さを実感。
まめにノートに書き込み、クレバーさを身につけたことで
投球の幅が広がり、

先発投手として3年連続2桁勝利、自己最高の13勝を記録、
1997年、リーグ優勝そして日本一にも貢献したのです。

ついにFA権を取得すると団野村を代理人として、いよいよ
夢であったメジャーリーグ挑戦が現実味を帯びてきましたが、
その頃すっかり、ヤクルト投手陣の柱となっていた吉井には
中日、巨人、西武など数球団からオファーが舞い込み、
争奪戦の様相を呈してきました。

特に巨人は、当時、年俸9500万円の吉井に対して、
4年12億円を提示するなど好条件を提示、
さらに長嶋監督が「私のポケットマネーでもう1億」出すと言い出し、
総額13億円を用意してきたのでした。

さすがに気持ちがグラついた吉井でしたが、
ここで背中を押される出来事が起こります。

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