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ケビン・ミッチェルという男

割引あり

1962年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に
生まれたミッチェルは、家庭の事情から
サンディエゴのスラム街で祖母と生活を
ともにしていましたが、
次第に生活は荒れていき、中学を退学した頃には
札付きのワルとしてギャング団に
属するようになっていました。

敵対するギャングに3度、銃撃された事もあるほど
殺伐とした環境下で高校にも行かず、
草野球をして遊んでいたところ、偶然通りかかった
メッツのスカウトがその野球センスを目の当たりにして
声を掛けます。

のちに殿堂入りも果たす天才打者トニー・グウィンが
「内角はレフトへ本塁打し、外角の変化球はライトに
安打するセンスは地球上でナンバーワン」とまで
絶賛した才能に惚れ込んだメッツは
1980年、ドラフト外で契約して入団させましたが
私生活の乱れからくる肥満体型で毎年のように
故障を繰り返しました。

1984年、マイナーリーグで
ダリル・ストロベリーと殴り合いの喧嘩を
するなど素行の悪さはすでにビッグリーグ級でしたが
セプテンバー・コールアップでメジャー初昇格すると
9月4日のセントルイス・カージナルス戦に
代打で出場してメジャーデビューを果たします。

翌年もマイナーリーグで力をつけて迎えた
1986年シーズン、複数のポジションを守れる器用さを
買われて開幕メジャーを勝ち取ると
4月27日のカージナルス戦でジョン・テューダーから
メジャー初本塁打を放ち、前半戦を
打率3割4分2厘の好成績で終えたばかりか
守備の方でも投手、捕手、二塁手以外の全ての
ポジションで先発出場するほど
デービー・ジョンソン監督に重宝されました。

後半戦も好調を維持して
ルーキー・オブ・ザ・イヤー3位に入る活躍と相まって
チームは13年ぶりのリーグ優勝に輝き、
進出したボストン・レッドソックスとの
ワールドシリーズでは、後世にまで語り継がれる
ミラクル・メッツの一員として躍動します。

2勝3敗で迎えた第6戦、試合は3対3のまま延長戦に
突入した10回表、レッドソックスは2点リードを
奪うとその裏、クローザーのカルビン・シラルディを
投入、あっさり2アウトとされ、地元の
ファンもメッツの負けを確信して
席を立ちかけていましたが
カーターがヒットを放って首の皮一枚つながると
代打ミッチェルがコールされました。

ユニフォームを脱ぎ、すでにサンディエゴの自宅に帰る
準備をしていたミッチェルは大慌てでユニフォームに
着替えなおして打席に立つと、ヒットを放って
メッツの逆転勝利の御膳立てをしたのです。

この試合をサヨナラでモノにしたメッツは
その勢いのまま、第7戦も制して世界の
頂点に立ちました。

その年のオフ、故郷サンディエゴ・パドレスに
移籍したミッチェルでしたが、シーズン途中から
サンフランシスコ・ジャイアンツに移ると
移籍当日、挨拶代わりの1試合2本塁打を
かっ飛ばすなど
チームの主力となり、最終的に
打率3割6厘、15本塁打を記録して地区優勝に
貢献します。

1989年4月26日のカージナルス戦では
サードからコンバートされたレフトの守備に
ついていた
ミッチェルはファウルゾーンに切れていく打球を
果敢に追っていくと、グラブではなく右手を伸ばして
素手でキャッチしたのです。

故障リスクを恐れず、直接捕球した
このベアハンドキャッチは
「ノー・グラブ、ノー・プロブレム」と
全米の話題となりました。

さらに守備の負担が軽減された影響か
前半戦だけで打率2割9分5厘、31本塁打、
81打点を記録、
オールスターゲームにはファン投票で初選出され
ホームランダービーにも参加、
実際の試合にも4番、レフトで名を連ねると
2安打を放つ活躍を見せて
最終的に打率2割9分1厘、47本塁打、125打点の
好成績で
本塁打と打点の2冠に輝いた大砲は
ベイブリッジシリーズと呼ばれた
オークランド・アスレチックスとの
ワールドシリーズ進出にも貢献したのです。

MVPとシルバースラッガー賞も受賞したミッチェルは
翌1990年も3打席連続本塁打の固め打ちを見せると
前半戦だけで打率3割1分2厘、21本塁打を記録、
オールスターゲームには2年連続ファン投票で
選出される人気者となり、球団はシーズン途中にも
関わらず
4年1500万ドルで契約延長のオファーを
出すほどでした。

しかしこの頃から少しづつ、自身の野球人生に
暗雲が立ち込めます。

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