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木田優夫という男

割引あり

今回は、木田優夫(きだ まさお)さんを取り上げていきます。

高校球児だった父親の影響で、東京都国分寺市の
少年野球チームで野球を始めると、
中学在学時、関東代表として台湾に遠征するなど
すでに野球選手としての非凡な才能を
発揮し始めます。

山梨県の日本大学明誠高校(にほんだいがくめいせいこうこう)に進学すると、
エースで4番として県大会に出場、
決勝まで勝ち上がったところで
名門、東海大甲府(とうかいだいこうふ)とぶつかりました。

東の久慈(ひがしのくじ)、西の立浪(にしのたつなみ)と言われた
守備の名手として、のちに
阪神タイガース、ドラフト2位で入団する
久慈 照嘉(くじ てるよし)ようする
東海大甲府が高い壁として立ちはだかり、
準優勝止まりでしたが、

188センチの長身から投げおろす速球が魅力の
右の本格派としてプロから注目を集め、
1986年ドラフト会議で、即戦力候補の阿波野(あわの)を
抽選で外した
読売ジャイアンツが、前年に獲得した桑田真澄(くわた ますみ)に
続けとばかり、将来性のある高校生として
木田(きだ)を1位に指名したのでした。

入団時は武器となる変化球がありませんでしたが、
期待の新人は、2年目からアメリカ留学の候補者に選ばれ、
マイアミ・マーリンズに野球留学することになりました。

そこで木田の手の大きさに着目した
オーランド・ペーニャコーチから、
フォークボールの指導を受けたことで開眼、

1989年4月29日にプロ初先発初勝利を手にすると
翌年には、二桁勝利とセ・リーグ最多の
シーズン182奪三振を記録、
オールスターゲームにも出場を果たし、
この年の優勝に大きく貢献したのです。

1998年1月、のちにミルウォーキー・ブルワーズに入団して
同じく、メジャーリーガーとなる

野村 貴仁(のむら たかひと)投手との交換トレードで
オリックス・ブルーウェーブへ移籍すると、
抑え投手として起用され、自己最多の16セーブを記録しました。

その年のオフ、フリーエージェント権を行使して
一番やりがいがある場所で野球をしたいと、夢に見ていた
メジャーリーグの世界に、なんと代理人を付けず、
自ら直接交渉して飛び込んだのでした。

ヤクルトと阪神でプレー経験があり、日本野球を知る
パリッシュが指揮官ということと、自動車産業が盛んで
日本人も多く、暮らしやすい、という理由で、
デトロイト・タイガースと2年300万ドルで契約。
ついに日本人8人目のメジャーリーガーとなったのです

「アメリカに英語の勉強をしに来たわけではない。
野球をしに来たんだから野球以外のことで
神経を使いたくない」と考えていた木田にとっては
最高の環境となりました。

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