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フェルナンド・セギノールという男

割引あり

1975年、パナマで生まれたセギノールは
のちに日本で一緒に戦う
シャーマン・オバンドーから野球を
教えてもらうと高校を卒業した1993年、
ヤンキース3Aに入団してプロの世界に飛び込みます。

1990年から11年間、ヤンキースのマイナーリーグで
監督をしていたトレイ・ヒルマンから
スイッチヒッター転身を進言され、
モントリオール・エクスポズに移籍して迎えた1998年、
メジャー初昇格を果たすと
4年間で172試合に出場し
通算打率2割5分1厘、17本塁打の成績を残しました。

すると2001年のシーズンオフ、
大崩れせずコンスタントな成績を残す
両打ちの中距離打者いう触れ込みで
オリックスに入団が決まり
身長193センチ、体重90キロの助っ人は海を渡ってきたのです。

NPB1年目の2002年5月、日本プロ野球史上初の
2試合連続左右両打席からの本塁打を放つと
7月26日にもシーズン3度目の左右両打席本塁打
を達成し、最終的に23発を放ちましたが
当たれば飛ぶがめったに当たらないという
粗っぽさから
打率は2割ギリギリの低空飛行を続けたため
1年限りで戦力外通告を受けました。

翌年はアメリカに戻り、ヤンキース傘下の
3Aコロンバスでプレーすると
打率3割4分1厘、28本塁打、87打点の成績を残して
首位打者と本塁打王の2冠を獲得したほか、
ヤンキースの一員としてメジャー再昇格も果たし
松井秀喜とチームメイトにもなりましたが
わずか5試合の出場で再びマイナーに降格した
2003年シーズンオフ、チャンスがやってきます。

マイナー時代の恩師トレイ・ヒルマンが
日本ハムの監督に就任していた事から、その助言も手伝って
スカウトが現地に視察に行ってみると
日本でプレーしていた頃の欠点が
矯正されており、これなら期待できる、と本人に打診、
「あの頃はメジャー昇格よりも、
日本に復帰する事ばかり考えていたから
即答だったよ」の言葉通り、
北海道日本ハムファイターズに入団を決め
契約金2000万円、年俸7000万円の1年契約で
ふたたび日本に降り立ちました。

2年前のオリックス入団会見時に
「優勝したらパナマ運河に飛び込む」とコメント
していた助っ人に
「優勝したらパナマ運河に飛び込みますか?」と
メディアが質問すると
「あの時は独身だったし若気の至りで言ったけど、
今は妻子がいるのでそれは出来ないね」と
冷静に回答、精神的に大人になって
帰ってきたのです。

その足で本拠地、札幌ドームを
視察したセギノールは
「何て大きなスタジアムなんだ」と驚き、
ヒルマン監督に
「俺たちはここを満員にできますかね?」と
訪ねたそうですが、2年後、それは現実となったのでした。

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