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呂明賜という男

割引あり

日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、呂明賜(ろめいし)を取り上げていきます。

台湾の華興高校から文化大学を経て
社会人の味全ドラゴンズ(ウェイチュアン・ドラゴンズ)では
4番をはり、アジア大会や世界選手権で活躍、
ホームラン競争100スイング中
52本をスタンドに運ぶ怪力を武器に
アマチュア通算112発の大砲は
その進路を注目されていました。

身長178センチ、握力80キロ超えの
筋肉スラッガーに対して
ボルチモア・オリオールズや大洋ホエールズから
オファーが届きますが、尊敬する母国の英雄、
王貞治氏が
監督を務める読売ジャイアンツに入団を決め
23歳の若さで海を渡ります。

当時のNPBのルールによって一軍に出場できる
外国人は2人までと決められており
ウォーレン・クロマティとビル・ガリクソン
という2名の元メジャーリーガーを抱える
チームにとって
台湾の逸材はあくまで第三の外国人という
保険的な意味合いでした。

1988年2月、自身の体重97キロに由来して
背番号も97番に決まり、宮崎二軍キャンプに
合流した呂明賜は元々、捕手だった守備位置を
外野手へコンバートされるところからの
スタートとなりましたが、
打撃のほうは評判通りの力をすぐに発揮します。

ファームの開幕戦から25試合で打率3割9分7厘、
10本塁打とヒットの3分の1がホームランという
強打者ぶりで
日本人なら間違いなく四番、山本浩二より
パワーがあって大杉勝男より器用。
外人扱いというのが残念だ、とジャイアンツOBの
張本氏も絶賛し、一軍デビューを誰もが
待ち望んでいました。

すると6月、クロマティが骨折して戦線を
離脱したことから一軍昇格のチャンスが
訪れると、デビュー戦となった6月14日、
神宮球場で行われたヤクルト戦に
6番ライトで出場、そしてあの後世にまで
語り継がれる伝説の打撃を見せたのでした。

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