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【ウェイド・ロードン】内外野をこなす便利屋としてメジャーとマイナーを行き来していた助っ人は来日するや守備だけでなく打撃の方でもカープの象徴的存在となった クラーク・ケントに似ている真面目でクリスチャン

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はウェイド・ロードンを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=N0_kS89mrlk

1960年、アメリカ合衆国ニューヨーク州で
生まれたロードンは、マイアミにある
パルメト高等学校を経て
ステッソン大学に進むと、1981年の
MLBドラフト8巡目で
シカゴ・ホワイトソックスから指名を受け
入団しましたが
翌年にはジム・カーンとのトレード要員として
シンシナティ・レッズに移籍します。

1984年9月4日、レッズから
メジャー初出場を果たしたものの
レギュラー定着とはいかず、サードやショート、
時には外野手もこなせる便利屋として
マイナーとメジャーを行ったり来たりする
エレベーター生活を送っていた1986年、
日本球界からオファーが届きました。

しかしまだアメリカでやりたいロードンは
そのまま残る事を選択、
1987年にシカゴ・カブス、翌年には
ボルチモア・オリオールズへと
移りながらレギュラー定着に向けて
奮闘しましたが叶う事は無く
1988年6月19日がMLB最後の出場となったのです。

ちょうどその頃、鉄人衣笠が引退し
正三塁手として期待していた助っ人
ランディ・ジョンソン内野手も
足首を故障して退団、投手から内野手に
転向したばかりの
片岡にサードを任せて急場をしのいでいた
広島東洋カープは
高い打撃力と守備力を有した強打好守型の
内野手を探し始めていたところ、
実兄が広島カープの元選手であり
自身は監督として
常勝軍団、西武ライオンズの礎を築いた名将、
広岡達朗(ひろおかたつろう)氏からロードンを
推薦されました。

満を持してミスター赤ヘル山本浩二が42歳で
新監督に就任し
ユニフォームもシンシナティ・レッズ風に
リニューアルされた記念すべき1989年、
メジャーリーグ3球団を渡り歩き
守備の評価はもちろん、打撃面でも
マイナー通算打率2割8分を
記録していた身長188センチ、体重77キロの
助っ人は、年俸3500万円で契約すると
海を渡ってきたのです。

キャンプ地に現れた細身でメガネをかけ、
銀行員のような風貌の背番号44は
いかにも真面目で非力なタイプに見えましたが
その見た目の通り、オープン戦でも
フェンスを超える打球は無く、
宿舎で聖書を読みふけっていた事から
評論家はダメ外人のレッテルを貼りました。

さらに開幕前の3月、ロザンヌ夫人の出産に
立会うからと
一時帰国してしまった28歳の若者を
山本監督は
「開幕に間に合えばいいんだ、まあ見ておけって。
自分なりにスタンスを変えたり、工夫していたし
彼は実戦向きの選手だから」と擁護しましたが
チーム内では高橋慶彦を三塁で試し出し
第3の外国人調査も始まったのです。

いざ開幕すると指揮官の予言通り、
ディスられていた助っ人は打って打って打ちまくり
ロザンヌ夫人と生まれて間もないアマンダちゃんも
来日するとさらに大爆発、
「浩二」対「仙一」の親友対決と注目された
中日戦では2試合連続アーチを放つなど
4月だけで打率3割3分8厘、7本塁打、
18打点の活躍で、月間MVPこそ平成第1号を
放った巨人の原辰徳に譲ったものの
3番サードとしてチームを牽引しました。

大野、川口、北別府、長冨の先発ローテーションに
ストッパー津田を擁する強力投手陣と打線が
ガッチリかみ合った広島は15勝3敗と開幕ダッシュに
成功、格安助っ人の想定外の活躍に打撃コーチは
「ワシだって打つとは思わなかった」と
苦笑いしたほか、
擁護していた山本監督も
「本当はどうなる事かと思っていたんだ」と
本音を明かしたのです。

「周囲からあまりにサラリーマンだとか、
銀行員だとか言われるので野球がダメになったら、
本当に銀行員になってやろうかと思っていたけど
カープで後5年はプレーしたいね」と語った
ロードンの活躍はその後も止まらず、
6月には横浜の木田投手から高橋、正田、ロードンの
初回先頭打者からの3連発オオトリを飾ると
前半戦だけで打率3割7厘、16本塁打、
49打点の好成績を残しました。

後半戦も同期入団のロッド・アレンとともに
カープの象徴的存在として主軸の役割を果たした
助っ人は
「キャンプは日本の野球に馴染むためのもの
だったけど早急に判断を下された時は参ったよ。
幸い、日本語が分からないから良かったけどね。
とにかく毎日プレーできる所を探していたら
日本は3Aクラスの選手を探していると聞いたんだ。
私がまさに3Aとメジャーを行ったり来たりする
選手だったんだよ」
と饒舌に語り、試合終了後、他の選手が帰った後も
ティーバッティングを行なう
真面目な助っ人は日本にマッチしたのです。

最終的に123試合で142安打、打率3割、22本塁打、
79打点の打撃に加えて、走者がいる場面での
打率は3割3分8厘に跳ね上がるほど勝負強かった
助っ人は、守備面でも14失策と
堅実なプレーを見せて
ゴールデングラブ賞を獲得しました。

しかし迎えた2年目の1990年、
他球団から執拗な内角攻めを
受けるようになると、ボールが怖いと
イップスが発症、
腰が引けて全く打てなくなったばかりか
前年わずか14個だったエラーが
開幕1カ月で7個と、守備面にも
影響が出始めたのです。

マイク・ヤングが新加入し、外国人枠の
関係も相まって
ファーム行きを命じられたロードンは
素直に従って2軍でプレーを続けましたが
結局、26試合のみの出場で打率2割3分という
結果に終わり、
シーズン終了後にチームを去りました。

帰国後はアメリカで聖職者になると、
派遣された東ヨーロッパの国、
モルドバ共和国で布教活動のかたわら
子供たちに野球を教えているそうです。

眼鏡をかけた銀行員のような見た目から
アメリカ映画の登場人物、クラーク・ケントの
ニックネームで親しまれた助っ人は
新約聖書、コロサイの信徒への手紙3章23節にある
「何をするにも人に対してではなく、
主に対してするように心から行いなさい」という
英文(+CoL 3:23)をヘルメットに書き込むほど
敬虔なクリスチャンでした。

マイナーリーグ時代、
ポーランド系アメリカ人リッチー・ジスクの
助言を受けて
身に着けたという極端なクローズドスタンスは
右足のつま先を捕手側、左足のつま先を
投手側に向けると
ホームベースに覆いかぶさるような
クラウチングスタイルから
右打者には珍しい走り打ちのようなフォームで
ダウンスイング気味にバットを振り抜き、
鋭い打球を放つのです。

そこそこ走れて三振も少なく、
二塁の守備もこなせる多芸な助っ人は
「日本の1試合ごとにミーティングをしては
対戦相手一人一人のデータを研究する姿勢には
驚いたね。
アメリカでは、よほどの一流選手じゃないと
ここまではしないよ。
槇原や斎藤はアメリカンスタイルの
良い投手だったけど、日本で一番のピッチャーは
大野さんだね。
それと日本特有の応援スタイルも好きだよ。
特にスワローズはトランペットもうまいし
傘の応援はオシャレだったな」と
日本の野球を楽しみながら、平時は
インテリのサラリーマンと見間違うほど
物静かな男は
ひとたびユニフォームに身を包むと
頼れる助っ人に変身する
広島カープのスーパーマン、
ウェイド・ロードン

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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