見出し画像

テリー・ウィットフィールドという男

割引あり

1953年、アメリカ合衆国カリフォルニア州の
貧しい家庭に生まれたテリーは
リトルリーグで野球を始めると
教育ママだった母親から
右利きをやめて左打ちに変更されました。

守備にまで細かく注文をつけるグラウンドママのもと
才能を伸ばしていくとパロベルディ高校を
卒業した1971年、MLBドラフト1巡目で
ニューヨーク・ヤンキースに指名されて入団、
1974年にメジャーデビューを果たします。

1977年、サンフランシスコ・ジャイアンツに
移籍してからはレギュラーとして活躍、
1980年もクリーンアップを任されて
118試合に出場、打率2割9分6厘、4本塁打、
26打点の活躍を見せました。

ちょうどその頃、西武ライオンズは
バリバリのメジャーリーガー、
スティーブ・オンティベロスが加入した事で
優勝争いを展開すると、これを見た堤オーナーは
「スティーブ1人でここまでチームが
変わるなら彼以上の大リーガーをもう1人
加えたら優勝できる」と
サンフランシスコ・ジャイアンツの外野手として
レギュラーを張っていた
中距離ヒッターに目を付けたのです。

西武グループの圧倒的な資金力を
背景に年俸6000万円のほか
トレードマネーや滞在費など含めて
3億円を投じて交渉を開始すると
身長185センチ、体重89キロの28歳は
3年契約で合意、
「なぜジャイアンツはこの選手を
手放してしまうのか。彼は
日本球団が獲得しうる限界を超えた選手だ」と
驚きをもって伝えられる中、海を渡って来たのでした。

ファーストネーム「テリー」で登録された
メジャー7年間で通算打率2割8分8厘の
アベレージヒッターは開幕直後こそ
日本投手の攻め方に戸惑ったものの、
5月半ばにはすぐにアジャスト、
1年目から打率3割1分6厘、22本塁打、
100打点の好成績で
ベストナインに輝いたのです。

9月のホークス戦でファーストに頭から滑り込み、
左手親指を骨折した助っ人は
「一塁へのヘッドスライディングが
ナンセンスな事は知っているけど
試合の流れを変えたかったんだ」と
チームを鼓舞するハッスルプレーを見せたほか、
雨天中止となった西武球場に
ベーブ・ルースに扮した格好で現れると
「このまま帰ったらファンはつまらないだろう」と
ダイヤモンドを一周して水しぶきをあげながら
ホームにダイビングするパフォーマンスを見せました。

ここから先は

1,495字

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!