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【ボブ・ホーナー】日本人の誰もがメジャーなんて夢のまた夢だと思っていた時代、現役バリバリの大リーガーの力を見せてやると、その桁違いの実力で来日して日本列島を興奮の渦に巻き込み、少年たちを熱狂させた本物

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ボブ・ホーナーを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=9jn7ZDCOaKk&t=296s

アメリカ合衆国カンザス州で生まれた、
ジェームズ・ロバート・ホーナー、通称ボブ・ホーナーは、
アリゾナ州立大学時代、当時の全米大学スポーツ協会NCAAの新記録となる
通算本塁打58本とシーズン本塁打25本を樹立、

原辰徳を擁する東海大学との親善試合では、7試合全てで
本塁打を放つなど、早くもその実力を見せつけていました。

1978年のMLBドラフト全体1位でアトランタ・ブレーブスより
指名を受け入団、メジャーリーグのように、
リーグ問わず、成績の下位チームから順番に指名していく
完全ウェーバー制という仕組みの中において
その年、一番最初に選ばれる選手への期待は
凄まじいものでした。

ホーナー自身もマイナーリーグで経験を積む必要なんてないと
2軍での出場を拒み、すぐにメジャーデビューします。

6月16日のデビュー戦で通算287勝している
ピッツバーグ・パイレーツの大投手、バート・ブライレブンから
いきなり2ラン本塁打を放ち、衝撃デビューを飾ると、
シーズン通して、89試合に出場、打率2割6分6厘、23本塁打、
66打点を記録し、13年連続ゴールドグラブ賞を取り、
オズの魔法使いと呼ばれたメジャー史上最高の遊撃手、
オジー・スミスを抑えて、新人王を獲得しました。

その後も4年間で30本塁打以上3回、オールスター出場も果たすなど
ブレーブスの4番打者として成績を積み重ねていきます。

1983年、1984年は右手首の故障に悩まされましたが、
1985年に27本塁打、1986年にはメジャー史上11人目となる
1試合4本塁打を達成し、完全に復調したと思われた矢先、
予想もしていない運命が待ち受けているのでした。

この年のオフ、フリーエージェントとなったホーナーですが
FA選手を取り合うことで年俸高騰に頭を悩ませていた
各球団のオーナーが示し合わせ、高額なFA選手の
締め出しを画策、どこの球団とも希望通りの契約させないようにしたのです。

MLB通算215発、年俸2億6000万円で大リーグ全体でも8位の高給取り
となっていた
ホーナーもすぐに契約出来る球団がなく、浪人寸前。

ちょうどその頃、ヤクルトはパドレスの万能選手、サラザールの
獲得が決まっていましたが、オーナーから「こんな小物ではダメだ!
60本塁打くらい打てる大物を取ってこい」と大号令がかかり、
契約を白紙撤回。あらためて大物助っ人を探しなおさなければならない
事態に陥っていました。

アトランタの地元紙では、高額のホーナーに対して、
手首の故障や太りやすい体質を理由に
「プロレスラーは不要」と書かれ、プライドを傷つけられながらも
足元をみられて、ブレーブスから提示された2年契約、
年俸1億5000万円を飲むしかないのかと悩んでいたホーナー。

その情報を聞きつけたヤクルト関係者は、ダメ元で
日本人最高給、落合の1億3000万円の倍以上、
2億8000万円の条件でオファーをしたところ、
誇り高き男は、意外にも好反応を見せたのです。

ゴッホの名画「ひまわり」を日本の会社が
58億円で落札するなど、バブル経済の好景気も手伝って
超大物大リーガーと夢の契約を成立させたヤクルトのオーナーは
「年俸は約3億円。50本塁打、打率3割を下回れば減俸だ!」と
上機嫌に語り、

1987年4月27日、関根監督率いるヤクルトスワローズの一員と
なるために来日、背番号は「シーズン50本塁打」の期待を込めて
50番に決まりました。

当時、日本でプレーする外国人選手は、一軍と二軍の間レベルか、
実績は素晴らしくてもピークを過ぎた選手がほとんどでしたが、
ボブ・ホーナーは、マイナーを1度も経験したことがない
エリート中のエリートであり、年齢も30歳目前、前年も4番を打っていた
全盛期の現役バリバリ、本物のメジャーリーガーが来日するとあって
マスコミは大騒ぎとなりました。

手ぶらで空港に降り立った身長185cm、体重100kg、
少しお腹が出た金髪メガネの巨体にマスコミがマイクを向け、
「なぜ野球道具を持参していないのか」と質問すると、
「道具なんか問題じゃない。バットはバット。
ビッチャーの投げたボールをバットにのせる。
実にシンプルな行為さ」と笑ったのです。

5日間軽くフリー打撃で汗を流して
時差ぼけを解消すると、一軍に合流、
5月5日の対阪神戦で、その風貌から赤鬼と名づけられた
男は、ついにベールを脱いだのです。

試合前、対戦相手の阪神タイガースで一塁を守っていた
三冠王ランディバースは、4歳年下のホーナーに
自ら歩み寄り、直立不動で挨拶を済ませると、

「向こうはバリバリのスタープレーヤー。自分は遠くから眺めているだけだ」と
憧れのスーパースターを見る野球少年のような眼差しで
軽々とさく越えを連発するホーナーの打撃練習を
見ていたそうです。

試合が始まると、その第3打席。
初球を振りぬいた打球は逆方向のライトポール際へ
挨拶代わりの第1号2ランを放り込みました。

試合終了後、ヤクルトが用意していたニューオータニのスイートルームで
チームメイトのレオンや阪神のバースとキーオも呼んで
飲みあかした翌6日、4時間しか寝ていない状態で臨んだ
第2戦で更なる衝撃が日本列島を駆け巡ります。

試合前、昨日のようには打たれたくないと
阪神投手陣が、メジャーで58勝のチームメイト、キーオに
「ホーナーの弱点はどこだ」と聞くと、
「ボブ・ホーナーに弱点はない」と即答。その言葉通り、

第1打席でレフトへホームラン。
第2打席のファーボールを挟んで、第3打席もホームラン。
第4打席はバックスクリーンへ叩き込んだのでした。

ピンポン玉のように飛んでいく1試合3本のホームランを
見せつけられた観客は歓声も忘れて、呆然とボールの行き先を
眺めているだけでした、

日本球界デビュー最初の2試合で6打数5安打、打率8割3分3厘、
本塁打4、打点5を記録したあとの第三戦は
3打席敬遠という勝負すらしてもらえない状況に。

「ちゃんと勝負さえしてもらえれば200本は打つよ」と
バースが語っていた通り、
デビュー4試合目となった広島戦では勝負してきた
投手陣から、第1打席でライトへホームランを放つと、

第3打席ではストライクゾーンから7センチ外れた
厳しい内角のシュートを肘をたたんでコンパクトに振りぬくと
レフトスタンドの遥か彼方、場外へ消えていきました。

ここまで4試合で11打数7安打、6本塁打のデビューに、
幕末期の黒船襲来のようだと、野球ファンは連日、
神宮球場に押しかけて、超満員、ヤクルトの観客動員は
年間200万人を超えたのでした。

その活躍はプレーのみならず、
ヤクルトやサントリーのCM出演に、
人気の野球ゲーム、ファミスタに登場など
とどまることを知りません。

ゲーム内のホーナーは、当たっただけで本塁打になると
野球少年たちを熱狂させたばかりか、経済にも影響を与えて
ヤクルトの株価は高騰、宣伝効果は20億円と言われ、
オールスターファン投票も1位となりましたが
次第に、過熱するマスコミとファンの熱狂に困惑していきます。

試合後、飲みに出ただけでカメラに追い回される日々に、
一緒に来日していた奥さんも、球団が用意した
新宿のマンションにこもる孤独な生活に耐えきれず
わずか20日間の滞在で帰国、食事は球場帰りに
ケンタッキーフライドチキンと大量のビールを
買い込んで食べる生活となりました。

普段は物静かで穏やかな性格でしたが、そのストレスから
長い練習とミーティング、選手に愛煙家が多いこと、
狭い球場、バントや変化球を多用するプレーに
引き分けのある試合、観客との間の高いフェンスや
巨人寄りの審判の判定など、ありとあらゆることに対して
不平不満が爆発することが
多くなり、練習も休みがちとなっていきます。

それでも最終的には93試合の出場で打率3割2分7厘、31本塁打、73打点の
成績は残したホーナー、規定打席未満で30本塁打以上は
史上唯一とさすがの力を見せつけたことで、
ヤクルトは3年総額15億円を用意して契約延長を
望んでいましたが、

MLB通算1000安打まであと6本。年金資格もあと
1シーズンで得ることができるホーナーは、
主砲の移籍で空いてしまった四番打者を任せたい
セントルイス・カージナルスと相思相愛となり、
1年1億円で契約、
「地球の裏側にもうひとつの野球があった」との言葉を残し、
あっという間に日本を離れていったのでした。

翌1988年、MLBに復帰すると開幕4番としてスタートを切りましたが
その後は左肩の故障で思うような
プレーが出来ず、31歳の若さで引退となりました。

引退後は石油とガスの会社を設立したものの失敗、
多額の借金を抱え込んでいましたが、当時のFA選手締め出し事件は
違反だったとして訴え、賠償金7億7000万円が支払われたのです。

1993年、ヤクルトのユマ春季キャンプに臨時コーチとして招かれたホーナーは
「バッティングは80パーセントが頭で決まる。データを駆使して、
投手の配球を読んで打つんだ」と選手に語り、
当時監督だった野村克也氏は「俺と同じ考えだ」と感心していたと
言います。

日本でプレーした時代を
「とてもエキサイティングなものだったよ。大きなケガをすることなく
ヤクルトに迷惑もかけずに済んで本当に良かったと今でも思っているよ」
と振り返っていました。

ホーナー自身、弟を白血病で失っていることもあり、
大リーグ時代から進んでチャリティ活動をしていたため
日本でも、ホームランを打つたびに20万円を寄付する
基金を立ち上げたり、
神宮球場のネット裏50席に子どもたちを招待したりと
今では日本球界でも当たり前となっている
チャリティの精神も輸入していきました。

またプレーでも巨体を揺らして、凡打でも一塁へ全力疾走する姿に
チームメイトの広沢も
「スーパースターがあれだけ走っているのだから
自分たちも手を抜くわけにはいかない、
みんなが忘れかけていた全力プレーを教えてくれた」と語っています。

ゆったりした構えからバットを軽く握り、決して強振することなく、
コースや球種に合わせてコンパクトに左右に打ち分けるバッティング。
ただそのスイングスピードとインパクトは今まで日本人選手や
助っ人では見たことのなかった異次元のものであり、
打ち損じても決してあきらめず、神宮の夜風に金髪を
なびかせながら、赤鬼の形相で一塁へ全力疾走する姿に
ホンモノの大リーガーの凄さを見たのでした。

それから8年後、野茂英雄が渡米して大リーグに挑戦し、
バッタバッタとメジャーリーガーを三振に取る姿に
日本中が歓喜したのは、この時に見た、
ホンモノの大リーガーを知っていたからなのかもしれません。

日本球界に彗星のように現れて去っていった最強の赤鬼
ボブ・ホーナー。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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