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【荘勝雄】大学講師という安定した地位を捨て台湾から海を渡り異国の地で投げまくったタフネス右腕 貧乏球団の希望となり先発に抑えにフル回転も弱音は吐かなかったスタミナ満点の鉄腕

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、荘勝雄を
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=154Z2EI1qbs&t=159s

台湾で生まれた荘は
輔仁大学(ほじんだいがく)卒業後の1983年、
世界選手権に台湾代表チームのエースとして
出場すると5勝負け無しの活躍を見せ
最優秀投手賞に輝きました。

翌年開催されたロサンゼルスオリンピックの
代表にも選出されると、
148キロの速球と魔球ナックルボールを
駆使して
強豪キューバ相手に1失点完投勝利を挙げるなど
3つ年下のオリエンタルエクスプレスこと
郭泰源(かくたいげん)らと、投手陣を
引っ張り
銅メダルを獲得します。

台湾チームの躍進を目の当たりにした
日本の各球団は外国人助っ人として
台湾投手陣に白羽の矢を立てました。

郭泰源をめぐり西武と巨人が激しい
争奪戦を繰り広げる中、
ロッテオリオンズは荘に照準を合わせますが
当時のロッテと言えば老朽化が
激しいボロボロの川崎球場を本拠地として
スタンドで観客が流しそうめんをする
ほど閑古鳥が鳴いている
絵に描いたような貧乏球団。

テレビ番組のプロ野球珍プレー好プレーで
面白おかしく放映される不人気球団からの
契約内容は、他球団の助っ人のように高級マンションが
与えられるわけもなく、埼玉県狭山市の
合宿所暮らしに専属の通訳もつかない
年俸600万円のオファーに
台湾で大学講師という安定した職業に
ついていた26歳の若者は思い悩みましたが
全てを投げ売って日本で勝負しようと決断すると
身長175センチ、体重76キロと
小柄な右腕は海を渡ってきたのでした。

キャンプ初日から言葉も全く分からず
日本の長い練習に戸惑いますが、
先に中日ドラゴンズで活躍していた
大学の先輩、郭源治(かくげんじ)に
相談しながら食らいついていくと
次第に持ち前の明るさでチームに溶け込んでいきました。

真面目な性格から日本語を懸命に勉強し習得、
台湾キャンプ時には外出先で選手の通訳をかって
出るほどの人の良さも相まって
ナインからはカツオの愛称で親しまれ
一緒にカラオケに行き、松田聖子の青い珊瑚礁を
熱唱するほど日本語もマスター、
2月1日の誕生日にはチームメイトから
バースデーケーキを送られるほど愛されました。

完全にチームに馴染んだシーズン1年目の1985年から
先発に抑えに大車輪の活躍を見せ
オールスターにも出場、11勝と4セーブの成績を残します。

年俸が1200万円と倍増した2年目は
先発として11勝をあげたばかりか
抑えのいないチーム事情からシーズン途中から
ストッパーに転向すると10連続セーブポイントを含む
18セーブと大車輪の活躍でした。

無尽蔵のスタミナはその後も衰えることなく
3年目は13勝を挙げ、230イニング登板に20完投を達成、
そこから3年連続200イニング、15完投以上を果たすなど
驚異的な投げっぷりを披露、
2年連続最下位のチーム内で、ひたむきに
投げ続けた右腕(うわん)は
入団から5年連続2桁勝利を達成し
年棒は入団当時の10倍、6200万円となります。

1989年には1シーズンで4完封を記録、
なかでも自身がベストゲームと振り返っている
6月7日の西武戦、郭泰源との投げ合いは
愛甲の本塁打による1点を守り切り1対0の
完封で同郷対決を制しました。

1991年、日本に帰化して坂元良嘉(さかもとよしか)という
日本人になりましたが、その後は思うような結果が
出なかった事から、1995年、在籍11年目に引退を表明すると
千葉ロッテの投手コーチを皮切りに中国さらには母国台湾でも
監督やコーチを務めたほか、千葉ロッテマリーンズの
球団職員となった2014年には独立リーグ、
福井ミラクルエレファンツに派遣され
チーフコーチとして後進の育成に尽力しました。

地元台湾で中日の郭源治、西武の郭泰源と並んで
二郭一荘と呼ばれた国民的英雄は
148キロのストレートと、バットを根元からへし折る
カミソリシュート、それにカーブ、スライダー、
魔球ナックルと多彩な変化球を織り交ぜながら、
先発にリリーフにとフル回転、それを支えた
強靭な足腰とスタミナで毎年200イニング以上を投げました。

自身は「本当は先発をやりたいね。抑えは毎日ベンチに入って
準備が必要だし、うちの抑えは2か3イニングは行くからね。
自分の体が心配なんだけどタフなのがボクの一番の取柄だからね。
台湾時代は1試合で21イニングや235球投げたり、
1カ月間で100イニング以上投げた事もあるよ」
と、酷使とも言える起用法に不安を口にするも
チームのためにと投げ続けたのです。

巨人の呂明賜に何か悩みがあれば俺が相談に乗るから
いつでも電話してこいと伝えた親分肌の荘は
「マウンドに上がる時はいつも完全試合を狙っていて
それが崩れたら、今度は完封狙い。それがダメなら完投という
気持ちで投げていました。援護を期待するよりも
0点に抑えていれば負けないからと言う気持ちでしたね」
と語る低迷期のロッテを支えた背番号15。

B級グルメの匂い漂う川崎球場で、ひらがなで
「そうかつお」とサインしてファンに愛され、
チームのために先発と抑えの二足のわらじで
マウンドに上がり続けた鉄腕助っ人、荘勝雄。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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