長谷川滋利という男
今回は、長谷川滋利(はせがわ しげとし)さんを
取り上げていきます。
1968年、兵庫県加古川市で生まれ、
小学1年生の時に、父親の影響でソフトボールを
始めた長谷川は、自然と野球へ移行していくと
中学時代にはすでに投手として全国大会で
優勝するまでに成長します。
東洋大姫路高校に進学した2年の春夏、3年の夏と
3度甲子園に出場したばかりか学業の成績も
極めて優秀で、常に10番以内を維持、
推薦を受けて進学した立命館大学経営学部でも
4年生に古田が在籍していた野球部の投手として
関西学生野球連盟5度の最優秀投手に輝き、
通算40勝を上げました。
プロ注目の投手となった1990年、
オリックスからドラフト1位の指名を受けると
「プロも就職活動の一つですし
短期間でお金を稼げる就職先だと思っています」
と新人らしからぬコメントを残して
年俸(ねんぽう)840万円で入団します。
即戦力の期待から、往年の大エース
山田久志の背番号17を与えられた1年目、
6月5日の日本ハム戦で9回1失点完投で
プロ初勝利を飾ると、7月に開催された
ジュニアオールスターゲームでは
ウエスタン・リーグ選抜のスターターを任され
最優秀投手賞を獲得、最終的に
ルーキーイヤーから
12勝9敗という好成績でパリーグ最優秀新人賞に
輝きました。
小学校の頃からアメリカで仕事がしたいと
いう夢を描いていた長谷川は積極的に
ジム・コルボーン投手コーチからアドバイスを
受けると
プロ3年目の1993年にはメジャーリーグ挑戦の
希望を球団に伝え始めたのです。
この年から3年連続で2桁勝利をあげ
先発ローテーションに定着した右腕(うわん)は
年俸7500万円となった1995年1月、
球団代表から
「君ならメジャーで2桁勝利を挙げられる、
来年はメジャーに行かせてあげたい」との
言葉を貰いましたが、そのわずか1か月後、
アマチュア時代から交流があり
同い年で共にメジャー志向という
共通の夢を語り合った野茂英雄が
ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を
結び、一足先に海を渡って行きました。
先を越された悔しさと羨ましさが
交錯して眠れなかったという長谷川でしたが
その気持ちを抑えて臨んだシーズンでは
12勝を挙げパ・リーグ初優勝に貢献したほか
オールスターゲームにも出場します。
日本球界と波風立てることなく
円満にメジャー移籍を実現したい長谷川の
希望を叶えるべく、その間もオリックスは
MLBにトレードを持ちかけましたが
上手くいきませんでした。
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