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【トロイ・ニール】祝!オリックス25年ぶり優勝記念!イチローと日本一まで成し遂げた気性が激しく乱闘騒ぎを起こす事も多いが何故か憎めない雰囲気と腹痛でも打席に立ちトイレに直行する天然ぶりも愛された大砲

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、トロイ・ニールを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Z0zShrghsnw&t=95s

テキサス州で生まれ、二十歳まではバスケットボール
に夢中になっていたニールは
ハワード大学に入学してから一転、野球を始めると
すぐに頭角を現します。

1986年のMLBドラフト9巡目で
クリーブランド・インディアンスから指名され
入団、5年間はマイナー暮らしを余儀なくされましたが
1991年、オークランド・アスレチックスに
移籍した途端、その才能が一気に開花、
3Aタコマで首位打者を獲得したほか、
投手としても3試合に登板するほど脅威の
身体能力を見せ、
メジャー初昇格を果たしたのです。

翌1993年にはメジャーに定着し19本塁打を放つと
1994年は4番(よばん)を任される事もあり
4打席連続ホームランをふくむ15本塁打を記録、
さらにメジャー屈指のスラッガー、
ビッグマックことマーク・マグワイアと
クリーンナップを形成する機会にも恵まれました。

やっと調子が出てきた矢先でしたが
ここで
運命を変える出来事が起こります。

1994年の8月頃から選手とオーナーの
主張がぶつかり合い、長期のストライキに突入した
MLBは一時中断、出場機会を求めて多くの
メジャーリーガーが海外に活躍の場を求めたのです

ニールも同様に、日本かメキシコなど
野球で生計が立てられる国だったら
どこへでも行くつもりだったとの
言葉通り、
長距離砲の少なかった
オリックス・ブルーウェーブ
からのオファーを即快諾、
契約金と年俸(ねんぽう)それぞれ1億円で
海を渡ってきました。

トントン拍子に交渉が進んだため
わずか2週間で入団が決まった
身長191センチ、体重98キロの
筋肉ムキムキスラッガーは
準備する間もないままキャンプインしますが
「すぐに100パーセントの力は発揮できないけど
最終的に打率2割8分から3割、ホームラン30本
くらいは打てる自信があるね、ただ一番重要
なのは打点だと思っているよ」と語り
2年連続二桁本塁打を記録した
アスレチックスの4番バッターという
触れ込みにも大いに期待が寄せられました。

いざ開幕すると、イチロー、田口、DJと
繋がるブルーサンダー打線の中核を成し
凄まじいパワーから繰り出す
豪快なホームランで主砲として活躍、
1年目からダイエー小久保にわずか1本
及びませんでしたが
27本塁打を放ち、チームのリーグ優勝に
貢献します。

進出した日本シリーズではヤクルトに
完敗した事から解雇も報じられましたが
土壇場で撤回され、2年目にその雪辱を
果たす事を誓ったのでした。

1996年、4月から四番に座ると
7月6日の近鉄戦では1試合3発、7打点、
8月24日から9月8日までの12試合では
50打数20安打の打率4割、8本塁打、30打点と
大暴れ、さらに後半戦に突入すると
三番イチロー、四番ニールの脅威的な
クリーンナップを組み
「この打順は最高だ、ラクに打席に入れる」と
32本塁打、111打点の活躍で、見事、
本塁打王と打点王の二冠を獲得し
オリックスのリーグ2連覇に貢献しました。

昨年の悔しさを晴らそうと、日本シリーズでは
最大11.5ゲーム差からの大逆転、メークドラマを
成し遂げたセ・リーグ覇者
長嶋巨人と激突、

イチロー対松井の対決に注目が集まる中、
ニールは17打数3安打、打率1割7分6厘と
振るわなかったものの
放った3安打が全て2点タイムリーで
6打点をマークする勝負強さで日本一に
貢献しただけでなく、MVPも獲得したのです。

阪神淡路大震災を経験し
雪辱を果たしたオリックスの主砲は
「ガンバロウ、コウベ!」と日本語で絶叫、
神戸の街に歓喜をもたらしました。

3年目の1997年は、打率2割6分5厘、25本塁打、
98打点とまずまずの成績を残しましたが
三振が多いという理由で自由契約となり
帰国すると
3Aバンクーバー・カナディアンズに入団、
プレーしていたところ、
4月30日、オリックスから再び契約のオファーが
届き、5月に神戸へ呼び戻されます。

背番号99を渡され、日本球界に復帰した
直後の5月15日、ダイエー戦で今も語り継がれる
珍事が起こりました。

4番、指名打者でスタメン出場する試合直前、
ひどい腹痛に見舞われ、欠場を直訴しますが
ルール上、DHは必ず一度は打席に立たなければ
ならなかったため、仕方なく腹痛を抱えたまま
出場します。

初回の攻撃で下痢を我慢しながら打席に
立ったニールは、とにかく早くトイレに行きたいと
適当に振ったら、なんと大当たりでホームランに!

爆発寸前の状態に全く喜ぶ事なく
全速力でダイヤモンドを一周すると
ベンチ前でハイタッチもそっちのけで
トイレへ猛ダッシュで直行、
チームメイトの大爆笑を誘いました。

8月9日の同じくダイエー戦では1イニング2本塁打
という記録も達成するなど帰ってきた助っ人は
キャリアハイの打率2割8分8厘に
OPS.959と非常に優れた成績を残します。

大の親日家だったニールは
翌1999年、グリーンスタジアム神戸で
結婚式を挙げて話題にもなりましたが
2000年は思うような成績が残せず
奇しくもシアトル・マリナーズへ旅立った
イチローと同じく2000年限りでオリックスを
退団したのでした。

仰木監督、中西ヘッドコーチにより
才能が開花した助っ人と言われ、
指導された逆方向へ打球を飛ばす練習を
毎日繰り返した事が日本での活躍に
繋がり、仰木マジックの一員となったニールは
「いろいろ頭に来て監督室に乗り込んだ事もあるけど
あの大きなスマイルと豪快な
笑い声で、すぐに怒りがどこかに吹き飛ぶんだよ」
と日本のボスを慕っていました。

日本に別れを告げた後は韓国に渡り
斗山ベアーズ(トゥサン・ベアーズ)
でプレーしていましたが
2001年5月、同僚の送別会の最中に
一般市民とケンカ騒ぎを起こし解雇された事で
「野球はもう終わりだ」と突如、
南太平洋の小さな島バヌアツに渡り
リゾート開発に着手、

カジキのフィッシングクラブや
Reefers Restaurant & Rum Bar
(リーファーズレストランアンドラムバー)
という
レストランを経営していました。

しかし離婚した元妻との間に生まれた
子供の養育費未払い容疑や
パスポートの期限切れによる不法滞在のため
2009年には国外退去を命じられ
ロサンゼルス国際空港に戻ると
一時、逮捕される騒動となりましたが、
5年間の執行猶予と、11万6千ドルを元妻に
支払うことで和解、自由の身となった
ニールは再びバヌアツの首都ポートビラに上陸、
なんとクリケット代表チームのコーチに就任
したのです。

バヌアツ代表マネージャーは
「彼は素晴らしい強肩を持っているアスリート。
チームの守備力向上にきっと貢献してくれる」と
アンダー19と代表チームの底上げを
期待されたのでした。

南国のリゾート地でコーチをしながら
カジキを釣り、音楽を楽しみ、
綺麗な海を見ながら悠々自適な
第2の人生を穏やかに過ごしながら
今では
野球とは無縁の生活を送っています。

現役時代、ホームインする際に捕手に
タックル、デッドボールを当てられ
ようものなら激昂し、威嚇行為を繰り返す、
荒ぶるファイティングスピリッツで
たびたび乱闘騒ぎを起こした背番号16は
実際には根が真面目な努力家で
中西ヘッドコーチは
「今日は休めと言って、いやだ、俺は出る、
って絶対に試合や練習を休まないんだ」と
語っていました。

闘志あふれるスタイルで
オリックス在籍6年間で136本塁打を放った
オークランドから来た筋肉マンは
イチローとともにリーグV2に貢献し
悲願の日本一も達成したチャンスに強い左の大砲
トロイ・ニール

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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