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トニ・ブランコという男

割引あり

1980年、1日15ドル程度で暮らす人が多い
ドミニカ共和国に生まれた
ブランコはサン・アグスティン高校を経た1997年、
ボストン・レッドソックスが現地に設立していた
アカデミーに契約金5000ドルで入団、
17才にしてプロ野球選手のキャリアを
スタートさせます。

メジャーのアカデミーが集まる
ベースボール・バレーと
呼ばれた街の片隅に、初めてプロ契約をした
同年代の若者が多く集まっては
マイナーの最下層、ルーキーリーグを
戦いながらアメリカ行きの切符を
夢に見ていました。

その中の一人となったブランコも
ドミニカの子供たちの格言
「歩いて海は渡れない」の言葉通り、
フォアボールで一塁に出てもメジャーには
行けないんだ、ホームランを打たなければ、と
振って振って振りまくり、豪快なバッティングを
見せ続けたのです。

そのかいあってか、1998年7月2日、
レッドソックス入りを
果たしてアメリカに渡りましたが、
2002年にシンシナティ・レッズへ移籍、
期待の若手として名が上がり始めていた矢先、
有望な選手に活躍の場が与えられず
マイナーリーグで飼いごろしになる事を防ぐ制度、
ルール・ファイブ・ドラフトにより、
ワシントン・ナショナルズから指名されました。

2005年、ドミニカ人でメジャーに上がれるのは
わずか2%と言われる狭き門をくぐり抜け、
ついにMLB初昇格を果たすと
大家(おおか)友和とチームメイトに
なりましたがレギュラー定着とはいかず、
再びマイナー生活の日々を送ります。

その後もなかなか光が見えずにいた2008年、
コロラド・ロッキーズ2Aタルサ・ドリラーズで
打率3割2分3厘、23本塁打、88打点を記録すると
運命の歯車が動き出しました。

退団が決まっていたタイロン・ウッズに代わる
助っ人を探そうと中日ドラゴンズの森コーチが
ドミニカやニカラグアを視察していたところ
ドミニカン・ウインターリーグで
19安打、9本塁打と長打力を発揮していた
ブランコに目を付けたのです。

「日本でどれだけ出来るかは未知数だが
大きいのを打てるのは魅力的。守備もバッテリーと
二遊間以外なら守れるし、まだ若いから
期待半分で化ける可能性がある」と
契約金5万ドル、年俸30万ドルで
オファーを出しました。

「日本でプレーするイメージは無かったけど
20代も後半になっていたからね」と
ハンバーガーリーグの住人と化していた
右の長距離砲は6億だったウッズの
22分の1の年棒で海を渡ってきたのです。

キャンプ地に現れた身長188センチ、体重102キロの
大男が凄まじい怪力でスイングするものの
バットが折れてばかりでボールが前に飛ばない
光景を目の当たりにした関係者は
「やはり駄目だったか」と落胆しましたが
落合監督は
「俺たちはお前の力をわかって契約したんだから
大丈夫だ、自信を持て。俺は現役時代、
腕よりも足でタイミングをとっていた。
そういうやり方もあるぞ」
とヒントを与えた途端、打撃が改善しました。

さらに打点だけでなくフォアボールでもヒットでも
塁に出て戻ってくれば良いからと得点も
インセンティブボーナスに加えた事で
「ホームランを打たなければ認めてもらえないと
子供の頃から染み付いていた考え方が変わったよ。
ボールを見極めて何でもいいから塁に出るんだってね」
と振り回さなくなった大砲は
穴の少ないスラッガーとして
才能が開花したのです。

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