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【バンプ・ウィルス】MLBで6年連続盗塁王に輝いた伝説の快足モーリーを父に持ち 自身もレンジャーズのレギュラーとして活躍したサラブレッドは高すぎるプライドが邪魔をして本来の力を出し切れなかった助っ人

おはようございます。
日本にやってきた
お騒がせ助っ人たちの真相に
迫る番外編、今回は
バンプ・ウィルスを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=LGQNYxIwS3Q

1952年、アメリカ合衆国ワシントンに生まれた
本名、エリオット・テイラー・ウィリスは
「母親のお腹にいた時から足を動かして
中から蹴りまくっていたらしいし
生まれてからも周りのものを
蹴り倒して何でも壊すようなベビーだったんだ。
だからバンピーとかバンプって
呼ばれたのさ」とヤンチャな幼少期を過ごしました。

父親のモーリー・ウィルスは
ロサンゼルス・ドジャースの内野手として
1960年から6年連続で盗塁王を獲得し
近代野球では初めて100盗塁を超え、
タイ・カッブが樹立した96盗塁を
遥かに凌ぐ
104盗塁を記録した伝説の盗塁王だったのです。

そんな父親譲りの快足を引き継いだバンプも
アリゾナ州立大学で名を馳せると、
1975年の二次ドラフト1巡目で
テキサス・レンジャーズから指名を受けて入団、
メジャー昇格を果たした1977年には
新人ながら152試合に出場して
打率2割8分7厘、62打点、28盗塁をマークしました。

その後も球界きっての変わり者と言われた
トビー・ハラーとともにメジャー史上初の
二者連続ランニングホームランや
自己最多の52盗塁を記録、
1980年には父モーリー・ウィルスが監督を務める
シアトル・マリナーズと対戦するなど
レンジャーズのレギュラー二塁手として
躍動したのです。

しかし1982年、シカゴ・カブスに移籍して
128試合に出場しましたが、
のちにアメリカ野球殿堂入りを果たす
名セカンド、ライン・サンドバーグの壁に
阻まれると、次第にチームの構想から
外れていきました。

その情報を聞きつけた阪急ブレーブスは
父親のモーリー・ウィルスが
臨時コーチだった縁も手伝って
6シーズンで196盗塁の韋駄天に
白羽の矢を立てて交渉を開始、
年俸1億円の4年契約で契約した
身長175センチ、体重80キロの
スイッチヒッターは海を渡って来たのです。

同期入団の大男ブーマー・ウエルズと
ウィルスが似ているからと
ニックネームのバンプで登録された助っ人は
1番福本との俊足コンビとして活躍を
期待されましたが
フリーバッティングで160メートル弾を連発する
ブーマーの元にメディアは群がり、
聞かれる事はブーマーの事ばかりだと
不満を口にするようになりました。

メジャーリーガーの自分より
3Aあがりのブーマーに集まるメディアに対し
「日本人はメジャーリーガーの
価値がわかっていない」とイライラを
募らせた助っ人は、起死回生のイメージアップを
狙ったのか、西宮球場でサラブレットと競走する
イベントに出演し勝利したのです。

一緒に走った福本氏は
「最初は断ったんだけど社長からバンプも
出るから一緒に走ってくれって頼まれてさ」
と裏話を語っていましたが、肝心の野球の方では
打率2割7分2厘、12本塁打、20盗塁と
やや物足りない成績に終わりました。

それでも本人は「日本の試合は長すぎて
調子を維持できない」と反省どころか
元MLB選手のプライドをひけらかす態度や
手を抜いたプレーを見せ続け
コーチの助言にも無視を決め込んだのです。

翌1984年の高知キャンプも
無断で早退するなど態度の変わらない
助っ人に上田監督やナインは
完全に見放し始めると、2年目の開幕後も
打率2割3分台と不振に陥りました。

そして迎えた5月9日の日本ハム戦で
首脳陣との間に決定的な亀裂が入ります。

8回表、打席に立った助っ人は
カウントが2ボールになったところで
ベンチから出た「待て」のサインを無視、
平凡なセカンドゴロを打ってアウトに
なると、指揮官の問いかけに対して
「アメリカであのカウントから
待てはあり得ない」と公然と批判したのでした。

激怒した上田監督はバンプに2軍行きを
命じましたが、契約上、それは出来ないと
フロントからストップがかかった事から
今度は上田監督が翌日の指揮権を放棄するという
内紛劇に発展したのです。

罰金10万円と監督への謝罪で一度は収束を
図ったものの、打率の低空飛行は変わらない
ばかりか守備や走塁の怠慢プレーが
日増しに増えていくと
「体力も気力も欠けていて、とても使えない。
あれだけ無気力なプレーを続けられると
他のナインにも悪影響が出てくる」と
指揮官は完全にさじを投げました。

さすがにマズいとようやく重い腰をあげた
フロントはメジャー各球団に
交換トレードを持ち掛けましたが
話に乗ってくるチームは無く、
最終的に残りの契約年俸2年分の半分を支払う事で
退団に同意させたのです。

チームはその年、打率3割5分5厘、
37本塁打、130打点を上げて外国人初の三冠王に
輝いたブーマーの活躍もあり、リーグ優勝を
果たしましたが
通訳を務めていたロベルト・バルボンは、
「20年間通訳をやったけど
日本の野球が好きじゃなかったのは
バンプだけだね。いつも帰りたいと
愚痴をこぼしてはブーマーに
止められていたからね。
でも1984年の日本シリーズに
もしバンプがいたら勝ってたんじゃ
ないかな。
セカンドが絡むプレーでゲッツーが
取れなかったのが敗因だし
僕もセカンドだったから分かるけど
どんな体勢からでも投げられる
二塁の守備力は本当に凄かったからね」
と振り返りました。

実際、日本シリーズ第一戦で
6-4-3のゲッツーが取れずに
与えた点が決勝点に繋がった事から
今もそのように語られている助っ人は
帰国後はテキサス州ガーランドに居を構え
3人目の妻と悠々自適な生活を送っています。

日本野球に関する本を執筆している
ジャーナリスト、ロバート・ホワイティング氏は
「阪急は大金を無駄にし、
バンプは時間を無駄にした。
そしてこれによって失われた
日米の友好感情は計り知れない」と記し、
ロッテのレロン・リーは
「MLBで高い実績を残した
お坊ちゃまに日本は合わなかったんだ」と
語りました。

ボビー・マルカーノという絶大な人気を
誇った外国人二塁手の後釜として来日し、
ブーマー・ウェルズという球史に輝く
最強助っ人と同期入団した
プライド高きメジャーリーガーは
放任主義タイプの監督のもと、
本来の先頭打者を任されていたなら
結果は少し違ったのかもしれません。

俊足を武器にMLBでレギュラーをはった
助っ人は、いろいろな巡り合わせや
タイミングから異国の地で花開く事は
ありませんでしたが、堅実な二塁の守備に
父親譲りの盗塁技術で球史にその名を刻んだ
スピードスター、バンプ・ウィルス

いかがでしたでしょうか?
今後も良くも悪くも大きなインパクトを
残していったお騒がせ助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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