見出し画像

ブライアン・シコースキーという男

割引あり

1974年、アメリカ合衆国ミシガン州で
ユダヤ系とアイルランド系からなる
スロバキア移民の子として生まれた
シコースキーは、西ミシガン大学を
卒業した1995年、MLBドラフト4巡目で
ヒューストン・アストロズに
指名されるとプロ生活をスタートさせました。

移籍したテキサス・レンジャーズから
2000年にメジャーデビューを果たしましたが
先発5試合を含む10試合の登板で
わずか1勝と伸び悩んでいた右腕に、
2001年のシーズン途中、思いがけないオファーが
舞い込んできたのです。

オークランド・アスレチックスから獲得した
左腕ジェフ・クベンカが開幕当初から不振に陥り
先発投手のコマ不足に頭を抱えていた
千葉ロッテマリーンズは
メジャーの実績はイマイチでしたが
150キロを超える速球を持つ
27歳の若者に白羽の矢を立てて
交渉を開始すると
身長185センチ、体重86キロの助っ人は
海を渡って来たのでした。

支配下登録選手期限ギリギリの6月29日に
入団した右腕は7月11日の福岡戦で
先発初登板を飾るも
12試合で3つのボークをとられるなど
日本野球に適応出来ず、1勝4敗、
防御率6.43の成績に終わった事から
解雇寸前でしたが、
長身から投げ下ろすナチュラルシュートに
ノビシロがあると感じた球団は年俸4000万円で
残留を選択したのです。

「来日当初は異なる文化や生活に苦しんだよ。
私は食べ物の好き嫌いも多いから
それも心配だったんだ。でもマクドナルドが
たくさんあるし、日本はきっと良い場所なんだ、
って自分自身に言い聞かせてね。
実際、みんなから助けてもらったね」
と、慣れてきた2002年、リリーフに転向すると
どんな起用法にも文句は言わず、
47試合に登板して
防御率3.44、102奪三振と
頼れるセットアッパーに変貌を遂げました。

幕張の防波堤こと、小林雅英につなぐ
中継ぎとして重宝された助っ人は
翌2003年も一定の成績を残しましたが、
シーズンオフに就任が決まった
ボビー・バレンタイン監督の意向で外国人選手の
刷新を図った事から戦力外通告を受けると、
リリーフ陣の駒不足に悩んでいた
読売ジャイアンツに入団します。

2004年、堀内政権下で脆弱だった
中継ぎ陣の一角を担ったシコースキーは
岡島とともに崩壊状態だったブルペンを
支えると、62試合に登板して5勝3敗5セーブ、
防御率2.67の活躍を見せたばかりか
翌年も70試合に登板して7勝1敗14ホールド、
防御率3.29と馬車馬のように
投げまくりました。

ここから先は

2,022字

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!