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【田口壮】シュアなバッティングと堅実な守備は超一流!それでもいつも謙虚で誠実で真面目な人柄から日本でもアメリカでも愛された名ユーティリティープレーヤー

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、田口 壮さんを取り上げていきます

https://www.youtube.com/watch?v=GXuqFaAlQFA&t=296s

福岡県で生まれたのち、父親の転勤により
千葉県、岡山県、兵庫県と転校を繰り返しながらも
3歳から始めた野球をやめることはなく、

進学した関西学院大学で守備はショート一筋、
打撃は
首位打者1回、最優秀選手1回、
ベストナイン4回を受賞するほどの素質で
一躍プロ注目の選手となりました。

1991年のドラフトでオリックス・ブルーウェーブと
日本ハムファイターズ競合の結果、
オリックスにドラフト1位で入団いたします。

その期待の大きさから、
オフに退団した福本豊さんの7を背負う可能性も
ありましたが、最終的には6に落ち着き、
いきなり、9番ショートで新人開幕戦先発出場を
果たしたのでした。

土井監督の厳しい指導でショートとしては
送球イップスに
なったことから、外野手に転向すると、
強肩病とイチローが絶賛していた肩を生かして
ゴールデングラブ賞の常連となります。

当時のオリックス外野陣は
イチロー、谷佳知とともに球界一
と言われ、イニング間にレフト田口とライト、イチローの
キャッチボールでファンを沸かせていました。

シュアなバッティングと堅実な守備はもちろん、
誠実かつ実直な性格で選手からの人望が厚く、
選手会長を務めるなど、オリックスの中心選手となり
1995年、1996年とシーズン連覇に貢献します。

打順は主に1番打者や3番打者を
イチローと入れ替わりながら
つとめると、

2000年のシドニーオリンピックでは、
オリンピックはアマチュア選手の晴れ舞台と出場を
拒んでいたイチローの心境を察して、代役で自分が出るからと
イチロー出場回避の嘆願を申し出て、
松坂大輔、中村紀洋らと共に、オリンピック野球日本代表として
参加したことで、メジャーリーグに挑戦し、
世界で戦ってみたいという気持ちを強くしたのです。

そして、その年のオフ、満を持して
FA宣言。
セントルイス・カージナルスと3年300万ドルで
契約し、入団会見場に貼られた横断幕には
「TAQUCHI」タクチと書かれるオマケ付きで
ついにメジャーリーガーとなったのでした。

2002年6月10日のシアトルマリナーズ戦でメジャーデビューすると
あまり出場機会に恵まれなかったにも関わらず、
19試合の出場で15打数6安打を放ちました。

翌2003年にはセカンドの守備につき、日本人初の内野守備を経験したり
メジャー初本塁打も放つなど、43試合の出場で得点圏打率3割5分7厘と
勝負強さを発揮した年となりました。

3年目の2004年は、いよいよその実力が認められ
メジャーに定着すると、109試合に出場、打率291、得点圏打率341を記録して
チーム新人王となります。

田口の活躍も原動力となり、カージナルスはワールドシリーズに進出、
優勝は果たせませんでしたが、トニー・ラルーサ監督は、私はソウを高く買っている、
と公言し、チームが最も必要としている選手は誰か?というアンケートや
ベストなベンチ要員は誰か?というアンケートでも
1位にランクインするなど、その評価は一気に高まったのでした。

オフには数球団からのオファーがありましたが、
ラルーサ監督の下で野球をもっと勉強したい。と
1年55万ドルで残留すると、その言葉通り、

2005年は143試合に出場。スタメン出場も増え、3番打者も務めるなど
大車輪の活躍で、月間MVP候補に挙がるほど。
最終的には、打率288、8本塁打、53打点、11盗塁、得点圏打率407という
素晴らしい成績を残したのでした。

翌年のポストシーズンでは、ニューヨーク・メッツとの
リーグチャンピオンシップシリーズ第2戦で豪腕ビリー・ワグナーから
劇的な決勝本塁打を放ちます。

その瞬間は6対6の同点で迎えた9回表に訪れました。

5万人の地元メッツファンで埋め尽くされた
敵地での試合、完全アウェーの中、投手は
160キロの速球と鋭いスライダーを武器に
40セーブをあげたメッツの守護神ワグナー。

簡単に追い込まれながらも必死に食らいき、
粘りに粘ったフルカウントからの9球目の速球を
完璧に打ち返したのです。

時が止まるとは、まさにこのこと。
打球がスタンドインすると、
一瞬にしてスタジアムは静寂に包まれ、
ぼうぜんとする大観衆を横目に
平然とダイヤモンドを一周した田口の姿が
全米に流れたのでした。

その勢いのまま、
デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは
先発出場、優勝が決まった瞬間フィールドに立っていた
初の日本人選手となりました。

2007年は代打打率406(32打数12安打)に
メジャー通算の満塁打率512という驚異的な成績を納めて
2008年フィラデルフィア・フィリーズに移籍すると、チームが28年ぶりに
ワールドシリーズを制し、2個目のチャンピオンリングを獲得しました。

野手最年長となる38歳で移籍してきた田口でしたが、
マニエル監督は、

ソウがよく言っていたことがあります。
体はすべてを知っていると。練習や取り組み方、
体のケアについての重要性や筋肉をほぐしておく大切さなど、
その姿を見るだけでも勉強になりました。
チームにとっても経験豊富なソウの存在は本当に大きく
助けられました、と語り、

実際に田口がどんなに不調でも
試合に出場できる25人枠のなかに、必ず田口の名前を書き込んでいて
何故だと質問してくる記者に、こう答えました。

バントなど細かいことや走塁もうまくて、四球も選ぶだけでなく、
なにより彼は不平不満を言うことが全くない。試合に出る出ないに
関わらず、常にベストの状態で試合への準備をする。
私たちにとってかけがえのない選手だからです。と。

フィリーズの主力選手にとっても田口の存在は非常に大きく、
ビクトリーノや大ベテランのモイヤーさえ、
尊敬の念を口にしています。

その後はシカゴ・カブスと契約、9月16日にミルウォーキー・ブルワーズ戦に
40歳2ヶ月で出場したことで、当時の日本人野手最年長記録も樹立いたしました。

2010年1月、古巣オリックス・バファローズと契約し
日本球界に復帰すると、背番号はカージナルス時代のチームメイト、
ラリー・ウォーカーの付けていた33をつけチームに貢献、

太もも痛により不本意なシーズンとなりましたが
田口の実直な練習態度や周囲へのアドバイスなど、
精神的支柱としての面が評価され、契約を更新し、

翌年は2番や3番打者としてチームを牽引したのでした。
その年を最後に現役を引退、唯一の心残りは、
元TBSアナウンサーの妻、香川恵美子さんに引退試合を
見せてあげることが出来なかったことだったと言います。

引退後はホリプロに所属しながら野球解説者や
ラジオパーソナリティを担当していましたが、
2015年10月に、オリックスバファローズから二軍監督としての
オファーが届き、後継者の指導にあたりました。

学生時代、ボールを投げる前に腕を2度引く癖がありましたが
プロ入り後のキャンプ3日目に、監督に言われた、
もっとスムーズにしろ、の一言で
リズムが壊れ、翌日から投げ方がわからなくなる
イップスに陥った経験を持つ田口は、

助言ひとつするのにも慎重に、
いろんなやり方を準備しておかなければなりません。
その意識を自然な形で選手に植え付けることです。

目指す頂きは一緒ですが、どのルートから登るか、それだけなんです。
カージナルスの名将ラルーサが、球場に遊びにきていた
自分の息子のスイングを見て
「見てみろ。彼は何も考えてない。これが理想のスイングなんだ」と
話していたことがあります。
ナチュラルですからね。本来は、それが一番良いということです。
色んな方向から、わざわざ難しい言い方をして、選手の頭の中を
ぐちゃぐちゃにしちゃダメなんです。

幸い、3人の名監督のもとでプレーできた経験は非常に大きいです。
オリックスの仰木監督、カージナルスのトニー・ラルーサ監督、
フィリーズのチャーリー・マニエル監督、
ちゃんと選手やコーチに対して声を掛けて、どういう状態なのか
理解し、気を配るから団結力がすごかったし、
みんな準備が早い。早く球場に来て、いろんなことを調べて、
試合で何をどうしたらいいのか、ちゃんと最初から組んでゲームに入る。
だから選手が迷わずについていけるんです。

と語っています。

レギュラーに匹敵する実力を持ちながらも、
チームの状況や戦力などを見て、求められる役割に
徹する黒子精神でチームを支え続け、

主力選手の契約の兼ね合いで理不尽に
控えに回されたり、マイナー落ちもたびたび
経験するも、何度でも這い上がってくるその精神力。

カージナルス時代、マイナーリーグの選手は、
ストッキングの裾を上げ、三本線を見せることで、
俺はマイナーから這い上がってきたというプライドや
意地をメジャーに上がってからも見せていたそうですが

田口もカージナルス入団直後から自分の力でやりたいと
通訳をつけず、プロの著述家に匹敵する構成力の高さで
書けるプロ野球選手と呼ばれたこともあるブログの
題名そのままに「何苦楚(なにくそ)日記」精神で
チャンピオンズリングを2個も手に入れたのでした。

カージナルスの3A球団メンフィスでは
地元ファン用に田口の個人グッズの販売がされていたほど
愛され、メンフィスの女性スタッフは
「私たちにとってのSOは、日本から来た外国人選手じゃなくて、
メンフィスからメジャーに上がった生え抜きの選手みたいな気がするの」
と語っています。

移籍してもスタンディングオベーションで
迎えられるほどファンに愛されていると地元紙にも
評されたその人柄で
チームメイトやファンから「SO」の愛称で親しまれた
勝負強さが持ち味のクラッチヒッターの名脇役。

セントルイス・カージナルス10人目のスターター、
スーパー・サブのユーティリティープレイヤーとして
打てる、守れる、走れる三拍子そろった人格者、田口壮。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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