見出し画像

バークレオという男

割引あり

カリフォルニア州オークランドに生まれた、
タイラー・リー・バンバークレオは、
チャッツワース高校を卒業後、
ミルウォーキー・ブルワーズに入団すると
マイナーリーグの1A(ワンエー)で4シーズン、
熾烈な生き残り競争に
身を投じましたが、なかなか芽が出ませんでした。

1984年、ブルワーズを解雇されるも
将来性を買っていたカリフォルニア・エンゼルスの
マイナーからオファーが届いて入団、
妻はベビーシッター、自身はペンキ塗りのアルバイトで生計を
立てながら、メジャーへの夢を追っていたプロ5年目、
数奇な運命が動き出します。

1986年、カリフォルニア・リーグ1A(ワンエー)の
パームスプリングスに所属し、打率2割6分8厘、22本塁打、
108打点をマーク、さらにリーグ最多の勝利打点19という
勝負強さで、エンゼルス傘下の2A(ツーエー)ミッドランド
昇格を手に入れた時、

まだまだ荒削りだが長打力が魅力的な若者を、たまたま同リーグの
サンノゼ・ビーズに秋山やデーブ大久保ら有望な若手を留学させていた
西武ライオンズの関係者は目をつけたのでした。

1987年、メジャーへの階段を1段づつ登り始めたバンバークレオは
シーズン途中まで48試合で打率3割2分8厘、12本塁打の活躍で
ついに最高峰の1歩手前、3A(スリーエー)昇格も確信した矢先、
走攻守の総合力と安定性にかけると2度目の解雇という
憂き目にあいました。

その状況を聞きつけた西武ライオンズの関係者は
すぐに日本行きのオファーを出し、バンバークレオも
断る理由はない、まだ野球が続けられると一発逆転を
狙って即決断、海を渡ってきたのです。

1987年の日本はバブル景気の真っただ中。
ゴッホの名画「ひまわり」を53億円で
日本企業が落札したり、アサヒスーパードライが
830億円の売上げを記録するなど
浮かれている社会の空気は当然プロ野球界にも派生しました。

落合が日本人最高年俸1億3000万円の時代に
ロッテは同額でMLB首位打者4回のビル・マドロックを獲得、
負けじとヤクルトはメジャー通算237本塁打の
ダグ・デシンセイを1億9000万円で連れてくるなど
好景気に沸く日本プロ野球界は実績のある
メジャーリーガーにとっても稼げる国だったのです。

しかし黄金期に突入した西武ライオンズのオーナー
堤義明はその風潮に一石を投じます。

ここから先は

2,367字

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!