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【パットナム】テキサス・レンジャーズからドラフト1巡目で指名されたルーキーは4番でデビューするほどの才能を見せつけると入団した日本ハムでは勝負強い打撃と明るい性格でチームのムードメーカーとなった助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はパット・パットナムを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=WA67yC5xzPE&t=35s

1953年、アメリカ合衆国バーモント州に生まれた
本名パトリック・エドワード・パットナムは
フォートマイヤーズ高校から
サウスアラバマ大学に進学すると
1973年の大学リーグで好成績を上げました。

その活躍に目をつけたテキサス・レンジャーズから
1975年のMLBドラフト1巡目で指名された
翌年にはルーキーリーグで打率3割6分1厘に
24本塁打をマーク、さらに昇格した
トリプルAでも打率3割1厘と力を発揮した事から
1977年9月2日のボストン・レッドソックス戦に
なんと、4番、指名打者として
メジャーデビューを果たしたのです。

いきなりのクリーンアップデビューも
4打数2安打と重責を全うすると
1979年には一塁手として139試合に出場し、
18本塁打をマーク、レギュラーとして
打線の中核を担いました。

ロン・ミュッセルマンとの交換トレードで
シアトル・マリナーズに移籍した1983年は
19本塁打を放ちましたが、翌年から打撃不振に陥り、
ミネソタ・ツインズに放出されると
FAとなったシーズンオフに
カンザスシティ・ロイヤルズと
マイナー契約を結びましたが、
MLBに昇格する事は無く、野球人生に
暗雲が立ち込めてきたのです。

ちょうどその頃、
日本ハムファイターズの高田監督は
前年、打率3割、30本塁打をクリアするなど
結果を残した4番、古屋を
5番に置けるような打線が組めれば
さらに攻撃力が上がると考え、新たな4番候補を
探していました。

MLBで、レギュラーまたは準レギュラー級の
一塁手として3度の二桁本塁打を含む
メジャー通算63発をかっ飛ばし、
高い打撃力を有した内野手に白羽の矢を
立てて交渉を開始すると、
33歳とまだ若く、人生の岐路に立っていた
身長185センチ、体重97キロの
左の大砲は海を渡ってきたのです。

1986年、日本プロ野球界でプレーしていた
助っ人の中でメジャー通算677試合出場という
トップクラスの実績をひっさげて来日したパットナムは、
同時期に新たに加わったブリューワとともに
明るい性格ですぐにチームに溶け込みました。

ド派手なファッションを好むブリューワとは
対照的に地味な私服を好んだ背番号6でしたが
ホテルで通訳をベッドごと逆さにするなど
イタズラ好きで、他人の足を引っ掛けては
笑い合い、ベンチが暗いと感じると
今度は自分がわざとつまずいて雰囲気を変える
ムードメーカーにもなったのです。

3番ブリューワ、4番パットナム、5番古屋の
クリーンアップでシーズン序盤はチーム最多タイに並ぶ
8連勝の快進撃を見せると
勝負強いバッティングで最多勝利打点のタイトルを獲得、
最終的に打率2割8分6厘、25本塁打、78打点と
本塁打と打点でチーム二冠に輝く活躍を見せました。

「先制タイムリーを打った後、みんなが追加点を取ってくれて
勝つケースが多かったからラッキーだったね」と
一塁の守備も巧みな謙虚な助っ人は喜びましたが
翌1987年は5月3日の近鉄戦で満塁弾2発を放ったものの、
その後は失速、同年限りで解雇となったのです。

インパクトのある名前で少年たちを熱狂させた
野球ゲームにも「Pトナム」として登場する
ファイターズの主砲は
メジャー3球団を渡り歩いて来日すると
いきなり最多勝利打点のタイトルに輝いた
勝負強きムードメーカー、パット・パットナム

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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