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シェーン・マックという男

割引あり

1963年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に生まれ
進学したUCLA時代、
ロサンゼルスオリンピックにアメリカ代表として
出場するとキューバの辞退により急遽招集された
日本代表と決勝で対戦、惜しくも敗れたものの
銀メダルを獲得しました。

翌1985年、MLBドラフト1巡目の高評価で
サンディエゴ・パドレスに入団しますが
思うような結果が出せないまま移籍した
ミネソタ・ツインズで1990年、ついに
その才能が開花します。

走攻守揃った活躍でレギュラーを奪取すると
1991年にはクリーンナップの中心に座り
ワールドシリーズ制覇という偉業を成し遂げたのです。

翌1992年には156試合に出場し打率3割1分5厘、16本塁打、
75打点、26盗塁と自身のベストシーズンとなったばかりか
日米野球MLB選抜の代表として来日も果たしました。

最終的にツインズ在籍5年間で打率3割9厘、67本塁打、71盗塁をマーク、
このままメジャーリーグで野球人生を全うする選手かと
思われましたが、1994年、予期せぬ出来事が起こります。

前年に行った右肩手術の影響も感じさせず
81試合の出場で打率3割3分3厘、15本塁打、61打点と
変わらぬ好成績を残していたシーズン途中でMLBストライキが勃発、
8月12日から全て試合が中止となり
31歳と脂の乗り切った外野手は一転、行き場を失いました。

当時のメジャーリーグ平均年俸は1億3800万円、現在のように
日米での大きな年俸格差もなかった時代とあって
働き場所を求めた大物メジャー・リーガーたちは
ジャパンマネーを求めて続々と来日してきます。

首位打者にも輝いたフリオ・フランコが年俸3億円、
5年連続20本塁打以上のピート・インカビリアも1億7000万円で
ともにロッテへ、
ナ・リーグMVP男ケビン・ミッチェルは2億円でホークスに
加入していく中、連覇を目指す長嶋巨人も
大物助っ人探しに奔走していました。

チームの顔、原辰徳、落合博満がベテランとなり
松井秀喜はプロ3年目の20歳とまだ発展途上だった事から
チームの新たな柱としての期待と
4番バッターばかりを集めた超重量打線の中で
リードオフマンも担える人材としてシェーン・マックに
白羽の矢を立てます。

実は、この背番号12がまだUCLAの学生だった頃から
巨人は目をつけており、契約の話を持ちかけた事もある
ほど、獲得を狙っていた助っ人を
2年総額8億円の大型契約でついに手に入れたのでした。

1995年、俊足強打の左キラーは来日早々、1月に起こった
阪神大震災の被災者に100万円を寄付する紳士的な
振る舞いを見せると、メディアから1番打者としての起用に
ついて質問を受けます。

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