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【トニー・ソレイタ】サモア初の大リーガーは鍛えられた怪力で本塁打を量産 日本ハムファイターズで大暴れしたサモアの怪人も私生活では日本文化をこよなく愛し休日には缶ビールを開け家族を大切したマイホームパパ

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はトニー・ソレイタを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=V4N6wr5ywsU&t=594s

1947年、南太平洋に浮かぶ
サモア諸島に生まれ、
幼い頃から丸木舟を漕いでいたおかげで
腕っ節が強かったソレイタは、
9歳の時に軍人であった父の仕事の関係で
ハワイ諸島に引っ越すと初めて野球と
出会います。

その後は12歳からサンディエゴ、
15歳からはサンフランシスコと転校しながらも
大好きだった野球を止める事はなく
高校を卒業した1965年、アマチュアFAで
ニューヨーク・ヤンキースから指名を受けて
プロ入りを果たしました。

シーズンオフにミラコスタ短期大学に
通学しながらメジャー昇格を目指していた
苦労人はマイナー時代に167メートルの
特大ホームランやシーズン49本塁打を
かっ飛ばしてタイトルを獲得、
飛ばし屋としてその名が知られるようになった
1968年9月16日、サモア出身者初の
メジャーリーガーとなったのです。

しかし、守備の不安定さと
左投手への弱さから、出場はこの1試合のみに
留まり、レギュラー定着とまでは
いきませんでした。

6年後の1974年、移籍した
カンザスシティ・ロイヤルズで
久々のメジャー再昇格を果たしましたが
その後は、カリフォルニア・エンゼルスや
エクスポズ、トロント・ブルージェイズなど
数球団を転々とする日々を送りながら
MLB通算打率2割5分5厘、50本塁打、
203打点の成績を残していた
代打専門の左打者は、32歳となった1979年、
このままメジャーで
生き残るのは厳しくなってきた事から
大きな決断を下します。

年の瀬も押し迫ってきた12月、
かねてから誘いのあった日本ハムファイターズの
六本木事務所を訪れると自ら
入団テストを志願し
真冬の多摩川グラウンドに場所を移しました。

大沢監督ら首脳陣が見守る中、
ブルージェイズのTシャツ1枚で打席に
立った胸囲117センチの巨漢は
豪快なサク越えを連発して合格を勝ち取ると
「アメリカでは今日がロスなら
明日はニューヨークとハードな移動の間に
不味いハンバーガーに
食らいつく生活だったからね。
日本で野球がやれる事は
チャンスだと思ったんだ。
それに妻から日本に行ったら
新幹線があるから大っ嫌いな飛行機にも
乗らなくて済むわよ、
なんて背中を押されたからね」と
身長183センチ、体重100キロの助っ人は
年俸2300万円で契約して海を渡ってきたのです。

怪力助っ人対策としてキャンプ地、四国の
右翼スタンド後方には50万円の費用をかけた
高さ8メートル、幅24メートルの防球ネットが
張られ、目指せホームラン王の横断幕が
なびいていました。

そのネットすら軽々と越えていく
ソレイタの打球に大いなる期待が
かけられて臨んだシーズンでしたが
開幕直後の9試合で打率1割5分2厘、2本塁打と
調子があがらない助っ人に対して首脳陣も
一抹の不安を覚え始めた矢先、
ポンコツ外人から
サモアの怪人へと飛躍する出来事が起こります。

1980年4月20日、南海戦の試合前、
ロッカールームに置いてあった同僚、富田のバットを
何気なく手にとると、
バランスが良く自分の感覚と一致した事から
譲ってもらい打席に立ったソレイタは
初回の第一打席で
いきなり
3号スリーランをかっ飛ばしました。

さらに3回にはソロ、5回にスリーランと
立て続けにホームランを放り込むと
6回のデッドボールを挟んだ8回、最終打席も
6号本塁打を放って、4打数連続本塁打の
パ・リーグ新記録を樹立、読売ジャイアンツの
王貞治氏が1964年に記録して以来、
16年ぶりの日本プロ野球タイ記録にも
並んだのです。

「1試合3本はメジャーでも打ったことがあるけど
4本は初めてだね。沈む球を強引に引っ張りすぎて
失敗していたから今日はセンター方向に
打ち返すように心掛けたのが良かったね」と
得意げに語り
オールスターゲームファン投票の一塁手部門で
1位を獲得しましたが
当時のルールで球宴に出場できる
外国人選手は同リーグ2名までとされていたため
同じくファン投票で選ばれていた
マルカーノ、レロン・リーより票数が
少ないソレイタは出場出来ませんでした。

長い練習時間や少ない外国人枠など
日本球界のルールに
たびたび疑問を感じていた背番号39でしたが
「俺は日本で野球をやっているんだから
システムがおかしくても、合わせるのが仕事さ」と
郷に入れば郷に従え精神で悔しさを噛み殺し、
臨んだ(のぞんだ)後半戦でまたもや
大仕事をやってのけるです。

9月4日、近鉄戦の最終回、
柳田から32号ソロを放つとその翌日には
メジャー時代から友人だった
チャーリー・マニエルのアドバイスも功を奏して
西武ライオンズ戦の第1打席から3連発の大当たり、
2日にまたいで4打席連続本塁打を達成し
1シーズン2度の4連発という日本新記録となりました。

5打席連続本塁打の記録もかかった9回の
最終打席は
この年、16打数ノーヒットと完璧に
抑え込まれていた天敵、永射(ながい)投手が
出てきた事で万事休す、
対戦前から
涙目になったソレイタはあっさり三球三振に終わり
5連発はお預けとなりましたが
噂通りの怪力を見せつけたのです。

その反面、バットが折れると
「恋人を失ったようだ」と
悲しみにくれ、バットを抱きしめ頬ずりする
繊細な助っ人は、一度スランプに陥ると
脱するまでの時間が長く
大沢監督から「良くあれだけ当たらんもんだな」と
嘆かれた1試合5三振のプロ野球記録も
持っていました。

安定感を欠くバッティングで
打率は2割3分9厘と低空飛行ながらも
ランナーが埋まった状態では
無類の強さを発揮して本塁打を連発、
ミスター3ランと呼ばれた勝負強さで
チャーリー・マニエルが本塁打王を
獲得した48本に3本足りない
45本塁打に95打点の好成績を残し
「今日やらなきゃ俺に明日はないんだ」と
ハングリーに打ちまくったのです。

1年目から活躍した地元の英雄に
サモア政府は
「故郷で野球教室を開いてほしい」とオファーを出し、
日本でもその個性的なキャラクターで
当時のパ・リーグには珍しく
一般の雑誌にも度々取り上げられるほど
人気者となりました。

翌1981年は日本投手の変化球にも慣れ
三振も減るなど安定感が出てくると
クルーズ、柏原と強力クリーンアップを形成し
4月21日のロッテ戦から5試合連続本塁打を放つなど
19年ぶりのリーグ優勝に貢献、
打率3割、44本塁打、108打点の好成績で
南海の門田と本塁打王を
分け合ったほか、打点王のタイトルも獲得して
二冠王に輝きます。

ともに後楽園球場を本拠地とした
読売ジャイアンツとの頂上決戦は
後楽園シリーズとして大いに盛り上がり
第1戦の初回に江川から逆方向へ
ホームランをかっ飛ばすと
続く第2戦でも初回に西本から
同じく逆方向へホームランを放つ活躍を見せました。

二冠獲得でMVP間違いなしと思われましたが
文春文庫から発売された助っ人列伝によれば
大沢監督が記者に
「ソレイタには投票しないでほしい」と
頼みこんだ事から
3勝6敗25セーブ、防御率2.85の江夏、
打率3割1分、16本塁打、81打点の柏原に
次いでMVP投票3位という結果に終わり、
傷ついた助っ人がボスに詰め寄ると
「だってキミは発表時に日本に
いないじゃないか」と言われたそうです。

ソレイタが日本人ならMVPだったと言われるほど
まだ閉鎖的だった日本球界に身を置いた
パワーヒッターでしたが
「日本人は合理的だね、畳と布団には感心したよ。
ベッドは動くと音がして夜中うるさいからね」と
妊娠中の妻に二人の子どもと住んでいた
信濃町に建つ3LDKのマンションを
畳部屋に改築し
日本文化を満喫、寿司や焼き鳥を
こよなく愛していました。

さらに日本の米は、サモアのライスと
同じで甘くてとてもおいしいと気に入り
ホットコーヒーにライスをひたして
食べるソレイタスペシャルなるものを食し
休日には興味のあった歌舞伎を見に行ったり
500円まで、と決めていたパチンコに興じたほか
授業料が高すぎると嘆いていた
アメリカンスクールまで子供たちの送迎を行うと
その帰り道に
キリンビールとセブンスターを買いこんで
帰宅する日本のマイホームパパのように
異国の生活に溶け込んだのです。

また豪快なバッティング同様、
気前の良さは筋金入りで
ホームランの賞品は同僚やコーチ、スコアラー、
打撃投手に惜しみなく譲り、
雑誌のインタビューを受けてギャラをもらうと
通訳や広報にまで分け与えたほか、
本塁打王争いをしているライバル門田から
「あなたのバットを試してみたい」と言われたからと
自身のバットもあげてしまうほどでした。

日本3年目となる1982年は初の三冠王を
狙うロッテの落合と
激しい本塁打王争いを繰り広げ、
10月3日のダブルヘッダー第1試合で
ソレイタは4打席とも
歩かせられたことから大沢監督が猛抗議、
「ロッテに堂々と勝負させろ」と
審判に食って掛かりましたが
ルール上は問題ないため、
結局、第2試合目も勝負して貰えない苛立ちから
明らかなボール球を振りにいき
抗議の三振を喫します。

露骨なファーボール責めに
「日本の野球はクレイジーだね」と
嘆きましたが、最終的に
全試合に出場して
打率2割8分1厘、30本塁打、84打点で
ベストナインに選出されるなど
変わらぬ活躍を見せました。

日本で最後のシーズンとなった1983年は
リーグ3位の36本塁打に84打点と
4年連続で30本塁打以上を達成、三振も
自己最少の77個にとどめましたが
打率が2割5分2厘と安定感を欠き、
そのイライラから審判の判定に腹を立てたり
大阪のホテルで大暴れする夜もあったそうです。

「力の続く限り日本ハムで現役を続けたい」
と翌シーズンへ向けて意気込みも語りましたが
大沢監督とともに退団を余儀なくされると
そのまま現役を引退、サモアへ帰国していきました。

サモア政府の教育局体育部、
公園レクリエーション局長として
第2の人生をスタートさせる一方
「故郷で青少年のために
野球クリニックを開くのが夢だった」と
語っていた通り、休止状態にあった
リトルリーグを復活させ、
後進の指導に尽力していましたが
日本を去ってから7年後の
1990年2月10日、土地取引のトラブルに
巻き込まれた日本通算155本塁打を放った
偉大なスラッガーは路上で射殺され
43歳の生涯を閉じたのです。

愛嬌のあるヒゲをたくわえ、上から
117、106、118センチの肉体美で
ヘラクレスとも称された陽気なサモア人は
真面目で練習熱心、そして子どもを
たびたび球場に連れてくるほど家族思いな
一面もあれば
苦手な飛行機に乗っている間は目をつぶり
一言も話さず瞑想状態に入るという
なんとも愛すべき助っ人でした。

積極的に覚えた日本語で
平仮名と片仮名の2パターンの
サインを用意していた日本通は
37インチに960グラムという
桁外れに長く重たいバットを金剛力士像のように
振り上げると、
極太の上腕二頭筋(じょうわんにとうきん)から
繰り出すスイングスピードで
神様ランディ・バース(を上回る)
も届かなかった

早さで
100号ホームランを達成した気は優しくて
力持ちのサモアの怪人、トニー・ソレイタ

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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