見出し画像

【ボビー・マルカーノ】ベネズエラからやってきた日本人以上に義理人情に厚い小柄な若者はジャパニーズドリームを掴もうと日本の練習やルールに必死に順応し勝負強さと高い守備力で球団初の日本一の原動力となった

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ボビー・マルカーノを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=vjk5NGehGLc&t=76s

1951年、ベネズエラで生まれた
本名ロベルト・マルカーノは
カラカス高校を卒業後、ベネズエラの球団
ラ・ガイラから
アマチュアFAにより、シンシナティ・レッズに
入団しましたが
身長177センチ、体重75キロと小柄な若者は
結果を残すことが出来ずにいました。

その後インディアンスの3Aポートランや
エンゼルスの3Aソルトレークシティなど
マイナーリーグを転々として迎えた、1974年、
ついにその実力が開花、打率3割2分4厘、
12本塁打、91打点の好成績を残します。

その頃、阪急ブレーブスの監督であった上田氏は
伝説のスカウトと呼ばれた現役時代の同僚
フィーバー平山氏がエンゼルスのスカウトとして
従事していた事から
走攻守揃ったマルカーノの情報を入手、
チームの助っ人として
是非とも日本に連れていきたいと交渉に乗り出すと
エンゼルスもトレードマネー欲しさに
オファーを快諾、勝手に話が進んでいきました。

球団から呼び出されたマルカーノは、いよいよ
メジャー昇格の話かと希望に胸を膨らませて
いましたが
球団幹部から伝えられたのは
「メキシカンリーグに行くか
日本のプロ野球に行くか
どちらかを選べ」というものでした。

エンゼルスとしては必ず阪急ブレーブスを
選ぶような状況を作ろうと絶対に選択しない
メキシコ行きを持ち出してマルカーノに
日本行きを選ばせるよう仕向けたのです。

夢を諦めきれないマルカーノはショックを受け、
このままマイナーに残ってメジャーリーグを
目指したいという気持ちがありましたが
妻や兄弟たちを養うために現在の年俸330万円の倍以上、
750万円をもらえる阪急ブレーブスは非常に
魅力的であり、日本行きを決断、海を渡ってきたのでした。

日本で成功してからメジャーに再挑戦するという
野望を抱えたまま来日した24才のマルカーノは
日本の練習やルールに
全て従い、順応していこうと努力を重ねます。

オープン戦から好成績をあげ、迎えた
1975年4月5日の開幕戦、
6番セカンドで先発出場、翌6日には初安打も
記録するなど1年目からレギュラーに定着すると
オールスターゲームにも初選出され、
6打数4安打の大活躍を見せました。

シーズン後半も調子を落とすことなく
打率2割9分8厘、23本塁打、71打点の好成績で
リーグ優勝に貢献、
さらにベストナインとゴールデングラブ賞を
同時受賞するなど
まさに攻守にわたって大きな戦力となったのです。

迎えた広島東洋カープとの日本シリーズでは
全試合で安打を放つなど、打率3割4分6厘、1本塁打と
大暴れ、4勝0敗2引き分けという圧倒的な強さで
球団史上初の日本一の原動力となり、
上田監督もマルカーノの勝負強さと高い守備力を
最大の勝因として挙げるほどでした。

翌1976年は5番に抜擢され、
2年連続ゴールデングラブに打率2割7分1厘、
25本塁打、64打点と前年同様リーグ2連覇に貢献すると
長嶋ジャイアンツとの日本シリーズでも打率3割5分7厘と
大舞台で無類の強さを発揮して2年連続日本一を手にします。

1977年もリーグ優勝はもちろん、日本一3連覇の立役者と
なりましたがシーズン途中、左目にボールを受け入院、
プレーする際には眼鏡が必要な視力となった事から
大リーグ再挑戦の野望を封印し、日本に骨をうずめる
覚悟を固めた年にもなりました。

1978年、4番に座ると前年の入院中に相手投手のビデオを見て
研究したかいもあってか
自己最高の打率3割2分2厘に94打点で打点王も獲得、
阪急の4年連続リーグ優勝に貢献し
ヤクルトとの日本シリーズでも打率3割4分6厘、2本塁打、6打点と
変わらぬ勝負強さを発揮したのです。

来日5年目もオールスターMVPに4度目のベストナインとゴールデングラブ賞に輝き、
初の30本塁打以上も達成、翌年も安定した成績を残しましたが
1981年、82年は膝の故障の影響により成績を落としてしまいます。

しかしヤクルトに移籍して迎えた83年、打率2割7分1厘、25本塁打、
78打点と見事に復活を遂げると、
翌年も打率3割、移籍3年目も打率2割9分9厘の成績で
広島のキャッチャーだった達川氏はセリーグにやってきた
ベネズエラ人を打ち取る方法が思いつかず
パリーグの西武ライオンズでコーチをしていた森氏に
アドバイスを聞きに行ったほど、
いつもの巧打者マルカーノが戻ってきたのです。

しかし日本プロ野球在籍11年目、衰えの見えてきたマルカーノは
自由契約となり現役を引退、
「日本人に親切にしてもらった事は一生、忘れません」と日本語で
挨拶すると涙を流しながら帰国の途(と)につきました

日本人選手と変わらない体格ながら勝負強さとパワーを
兼ね備えた打撃と、
上田監督に10年間は二塁手を探さなくていいと言わしめた
ゴールデングラブ賞4度受賞の堅実な守備に加え、
チームメイトとコミュニケーションを取りたいと
必死に日本語をマスター、また
自らのエラーでチームが負けた際には涙を流して謝罪する
真面目な人柄で誰からも愛された助っ人は
活躍に合わせて、たびたび
メジャーからも誘いがあったそうですが日本でやるんだと
一度決めた気持ちが揺らぐ事はありませんでした。

引退後、
巨人の中南米担当のスカウトとしてサンチェを発掘、
王監督のもとに送り込むと、スペイン語の通訳兼マネージャー
として自身も再来日を果たし、巨人のユニフォームを着たのです。

達成したかった1500本安打まであと82本だったマルカーノは
2年間の通訳の傍ら、トレーニングを欠かさず、ひそかに選手としてまた
復活しようという野望を持ち、各球団に売り込みを続けるほどの
夢追い人でしたが
それは叶わず、サンチェの帰国と同時に36歳でベネズエラに戻りました。

帰国後は南米の少年野球リーグで指導者をしていましたが
1990年11月13日、地元カラカスの自宅で肺ガンのため、
39歳の若さで死去、
訃報を聞いた上田監督や福本選手ら、かつてのチームメイトは
マルカーノが愛した神戸で行われた追悼式に参列、
涙を流してその早すぎる死を悼みました。

「私の曽祖父はトモウラという天草出身の日本人で
サーカスをやっていて、私には日本人の血が混じっていると
父親に聞いた事がある」
と語っていたマルカーノは
うどんやカツ丼など、日本食が大好きで
自分の名前を「丸河野(まるかーの)」と書くほど
日本語や日本文化も積極的に学んだそうです。

現在はMLBでもドミニカに次ぐ人材供給地となり
NPBでも
サンチェやペタジーニ、アレックスラミレスなど
今では当たり前となった
ベネズエラ野球の架け橋となった強肩巧打の二塁手は
チャンスにめっぽう強いシャープなバッティングと
5年連続20本塁打以上の長打力で阪急ブレーブスの黄金時代を支えました。

日本のシーズンが終わると故郷ベネズエラに戻って
ちょうど開幕するウインターリーグに参加、
オフは休んで欲しいと球団から止められても
365日野球をしていたという根っからの野球好き、
ボビー・マルカーノ。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!