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押したのは誰

 三十代の男性、渡辺さんの友人の話。その友人、気功や古武術などの東洋の身体技法に興味があってそれらを学び、実践しているという。彼に会うといつもその辺の話を熱く語り、実演してみせたりして、渡辺さんもよくその犠牲になっていた。
 その中の一つに、押されても倒れない立ち方というものがある。立ち方というよりも身体の状態のコントロールであるらしい。詳しくは覚えていないが、最適な身体の軸を保ち、力が抜けて重心がり、氣が全身を流れていて指先から氣が流れ出ているような状態。その状態ではどんなに強く押されても倒れないそうだ。渡辺さんも、押してみろと言われて彼をかなり強く押したつもりだったが倒れるどころかグラつきもしなかったので驚いたそうである。と同時に悔しくもあったので、友人が油断していそうなタイミングで力一杯押してみた。それでも友人は「何があったの?」といった表情でこちらを振り返っただけだった。
 ある時、渡辺さんは冗談で「ホームで突き飛ばされても絶対に転落しないのか」と聞いてみた。すると友人は「そうだな。プロレスラーだろうが相撲取りだろうがラグビー選手だろうが、どんな人間でも俺を突き落とせる奴はいないな」と笑いながら答えたという。

 それから半年ほど経って、渡辺さんにその友人の訃報が届いた。事もあろうにホームから転落して電車にはねられたらしい。目撃者によると何者かに押されたようにホームに落ちたという話だった。さらにその駅は飛び降りによる人身事故が何度か起きているいわく付きの場所なのだという。
 それを聞いて渡辺さんは思った。いったいどうしたのか。何があったのだろう。不意を突かれたとしても彼がホームから転落するなんてあり得ない。それは自分の体験からも確信している。おかしいと思いながら渡辺さんは、ふと、友人の言った言葉を思い返した。
 ――プロレスラーだろうが相撲取りだろうがラグビー選手だろうが、どんな人間でも――
 ――どんな人間でも――
 彼を押したのは人間ではなかったのかもしれない。人間じゃない何かに突き落とされた、あるいは引き摺り込まれたのではないか。
 渡辺さんは今でもそう思っているという。

―― 了 ――

(この話はフィクションです)

語り動画

2024年5月12日 三好一平の怖い話チャンネル「御前田次郎さんコラボ」より


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