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虫の命

 三十代の主婦A子さんは、とある動物愛護団体に所属している。そういった団体は数多あるが、A子さんが入っているのは主に犬猫の殺処分を問題にしている団体であるという。

 ある日の午後、A子さんは市民ホールで開かれている集会に参加していた。著名人の講演がメインのイベントだったが、その後で一般の会員による自由なスピーチの時間が設けられ、A子さんも登壇して思う所を話した。
 集会が終わって会場を出ると「スピーチ良かったですよ」と何人かに声を掛けられた。気分を良くして歩いていると、後ろから誰かが呼び止める。振り返ると、二十代くらいのどんよりと暗い雰囲気の男性だった。
「さっきスピーチしていた方ですよね」
「はい、そうですけど」
「あなた、虫は殺しますか?」
「え?」
「虫、殺しますか? うちでゴキブリとか蜘蛛とか出るときあるでしょ。殺しますか?」
「いや、あの……」
「殺しますか」
「……殺しますけど」
「虫も生きものですよね。犬猫と何が違うんですか。人間の命と何が違うんですか」
「なに言ってるんですか」
「あなた。動物の命とか言ってましたけど、結局殺すんですね。おかしくないですか」
「だって、害虫でしょ。仕方ないじゃないですか」
「虫があなたに何をしたんですか。どんな危害を加えたんですか」
「急いでますので」
 そう言ってA子さんは足速にその場から去った。

 不快な思いを抱きながら家へ帰ると子供が「おかえりー」と嬉しそうに出て来て「ねえ、晩御飯なに」と訊いてくる。
「今日はね、みんな大好きシーフードカレーよ」
「やったぁ」
 子供の喜ぶ声を聞くと嫌な気持ちも吹っ飛んだ。子供も夫も好きなシーフードカレーはA子さんの得意料理だ。下拵したごしらええが面倒だが、それが楽しみでもある。
 鼻歌を歌いながらイカを捌いていると「ただいま」と、夫が帰って来た。
「おっ、シーフードカレーか」と覗き込む。
 それからスーツを脱いで部屋着に着替えながら会社での出来事などを話す。着替え終わった夫がキッチンを覗き込んだかと思うと、小さな声を上げた。
「おい!?」
「どうしたの?」
「お前……何やってんだ」
「何って、海老いてるのよ」
「海老って…………それ…………虫だよ」

―― 了 ――

(この話はフィクションです)

改題

公表時「虫」としていた作品名を「虫の命」と改めました。(2023.8.29)

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