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拝啓、先輩 あなたのことが嫌いです

頭のなかで考えていることと、自分のなかで湧き上がってくる感情が別物らしい、ということに気づいたのは大学生のことだった。

思えばたいした大学生活を送っていたわけでもないのだが、私は小さなクラシック系の音楽サークルに所属していて、同期の一人とちょっと揉めていた。
揉めている、という言葉が大げさなほど些細な事柄で、そして相手の言っていることのほうが正論だった。私は妙にそれが癪に障って、ぶちぶちと愚痴を言っていただけだった。

別の同期とある日飲んだときにその話題になった。
相変わらず私はぶちぶちと愚痴を言っていて、行き過ぎて愚痴をいっている自分すらも嫌だった。
それを彼は笑ってこう言ってくれた。

そんな気持ちになるのも、しゃーなくない?
相手の言っていることが正しいのも分かるけど、キミとあの子の関係考えたら、ちょっと腹立つのもまぁ分からんでもないし。
まぁそんなこともあるよって。


本当に今覚えばなんてことのない会話だ。
けれども、私は結構ほわんっと救われたのだった。

この鬱屈とした気持ちを認めてよいのだ、ということ。頭で考えている”正論”(=相手が正しいということ)と、それに反する気持ちは同居していていいのだということがその夜分かった。
それは”しゃーない”ことなのだ。

ネガティブな気持ちを彼が肯定してくれたことで、私はそれを認識し、自分のなかでようやく消化できたのだった。


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どうしても好きになれない人がいる、ということも私を苦しめた。

どうやら私の家系は”性善説”に則っているようで、”基本的に悪いやつはいない”という考えが20代の私には染み付いていた。
今までその考えを覆すほどの人間に大学時代まであっていなかったことは逆に感謝すべきことなのかもしれないけれども、
この考えは呪いのように私のことを苦しめた。


それを変えてくれたのが先輩だった。


新卒で入った会社の先輩は厳しかった。
体育会系の先輩で、文化系で育ってきた私には異質な存在だった。

飲みの席で、「こいつの電話まじでウケるんですよ」と大げさな声真似をしてからかわれた。恫喝もされた。ノリが悪いと私の指導係が怒られた。
いたたまれない状況で最初に覚えたのは空笑いだった。でもすぐに見破られた。「笑ってんじゃねえよ」と胸ぐらを掴まれた。私には正解が分からなかった。

でも、その先輩はできる営業マンだった。
学べるところはたくさんあった。客先対応も、営業トークも、打ち合わせの綿密さも一流だった。客先からの信頼も厚かった。
指導するときは、丁寧に教えてくれた。

飲みの席での先輩だけが嫌だった。
私をからかい、おとしめ、キャバクラで私に土下座させる先輩だけが嫌いだった。
憎んでもいた。

憎んでいたはずだった。”殺してやる”と何度も思った。

それでも私がからかわれるのは、”私が不出来だからだ”と思っていた。
私がからかわれるようなミスをするからだと思っていた。はやく”できるように”なりたい。昨日のミスを直さなければ。
カラオケもうまくならなければ。面白いことやれ、と言われたらすぐに一発芸ができるようにならなければ。

他の先輩方からも言われた。
”愛のムチだな”
”できるようになればいいだけだから”
”見返してやればいいじゃん。ここで負けんなよ”


でも、先輩を憎むことにも疲れていた。憎しみをもつ自分が認められなくて疲弊していた。
自分がこんなにモヤモヤした感情やネガティブな思いをもっていることに、非常に落胆もしていた。


そんなとき、あの言葉を思い出した。


”しゃーなくない?”


あるとき、ストンとその言葉が胸に落ちた。
あぁ、私が憎しみの感情を持つのは仕方がないかもしれない。


だって、相手はクズなんだから。

あ、先輩はクズ野郎で私は嫌いだ、とその時”決めた”

重要なのは”決めた”んであって、”気づいた”のではない。
前から気づいてはいた。あの人にクズな部分があることは知っていた。どう考えてもキャバクラで土下座させるのはおかしいし、鏡月をボトルで一気させるのはおかしい。
クズだ。

ただその先輩にはクズじゃない側面もたくさんあるのだ。
困ったときには助けてくれるし、面倒見がいいときもある。自分が酔っ払わせてしまった後輩(私)はタクシーに乗せてきちんと家まで送ってくれる。
男気が溢れている人で、夜の遊びも教えてくれる。キャバクラのかっこいい同伴のやり方を教えてくれたのは先輩だった。先輩と飲んで自分の財布を出したことがない。

その相反する部分が私が判断するのを困難にしていた。
悪い人じゃない人部分がある、ということが「悪い人じゃない=きっと根はいい人」という判断となり、私を困らせていた。

でも、もうこれは決めの問題だ。

私は先輩を嫌いだ、と決める。

いい人の部分もあるだろう。けれども、総合判定黒!嫌い!


100%善い人もいないし、100%悪い人もいない。
だからこそ、総合判定するのだ。私はあの先輩が嫌いです。

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自分に関わっている人全員に好きから嫌いを判定していく必要はないと思う。
どちらかというと、基本的に私は私の周囲にいる人のことを基本的に好きなのだ。

だからこそ、好きかもしれない、と思うことで私が苦しむようなことになる人だけはあえてしっかりと”嫌い判定”をつけるようにする。

「お世話になっただろう?」
「色々イロハを教わっただろ?」
「お前のサラリーマンの基本を作ってくれた人だろう?」

全部、YESです。
正直、この先輩に教わったことは、私のサラリーマン人生では役にたつことが多かった。
営業としての礼儀やイロハはもちろん、転職した会社でも一発ネタには困らなかったし、先輩の破天荒な行動すら話のネタとしては最高だった。
感謝すべきことは多い。


けれども、私は先輩が嫌いです。

お世話になったので、道でお見かけしたらご挨拶はすると思う。それこそ先輩に教わった礼儀の一つとして。
でも、嫌いです。あなたのように酒の席で人のことをいびるような人にはならない。

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人を嫌いになることを経験して、私の人生は豊かになった。

いい人の側面がある人を嫌いと決めることで、私の脳内はすっきりすることになった。
色んな情報を経て、脳で判定をして、好きかもしれないし嫌いかもしれない、みたいな曖昧な判定をするのはなく、
人名を聞いた瞬間に脊髄反射で”嫌い”と答える。脳は使わない。脳のメモリを消費しない。
脳のメモリはもっと違うことに使おう。

憎しみ続けることともちょっと違う。
憎しみ続けることは常に脳のメモリーを消費することだ。


私の大好きなRED(著者:村枝賢一)という漫画にこういうセリフがある。

10年前に 死に絶えた ウィシャのことを
君は 片時も忘れずに 想い続けてきた
だが
ウィシャを殲滅した ブルー小隊のことも・・・
同じように 想い続けてきたのだろう?

片時も 忘れずに・・・

憎しみとは
まるで・・・・
愛・・・・のようだなあ
レッド・・・


私は先輩を憎まない。
憎しみつづけて、脳内のメモリーを消費しつづけるのは、それはもはや愛だ。

私が先輩との思い出を語るときは、「人を嫌いになるきっかけをくれた人」としてのエピソードか、「クズな先輩」としてのエピソードだけである。クズエピソードは人気がある。みんなそういう話、好きだからね。

みんな私が地方のキャバクラでDJ OZMAを全力で踊っていた話をすると楽しんでくれるから。そういう話はよくする。

ま、それだけのお話。

さて、おしまい。


(余談だけど、REDはすごく面白い漫画なので未読な人は是非。インディアンの復讐劇です。登場人物の名前がカラーネームになってて中二病感が爆発する。ARMSのキースシリーズでカラーネームとか度ハマった人は確実にハマるのでお薦め)


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