生きて、いたくても――Sep#8
中学校二年生の時、僕は家に帰る途中で捨て犬を見つける。
七月も半ばの頃で、その日は前日までにない猛暑だった。熱気は音一つ立てない癖にあまりの激しさで、僕は単純に小休止を挟むくらいのつもりだった。都合よく、水辺と物陰を兼ね備えた場所があったから。
家から割合近くにある川沿いの土手道を、僕は通学路として利用していた。信号に邪魔されず、距離的にも一番効率のいいルートだ。その河川敷、橋脚の下で、邂逅は果たされた。
実感としてその小ささと手触りを、具体的に覚えている。入れられていた段ボールの不釣り合いな大きさも。生後どれくらいとかは判断出来ないけれど、数箇月くらいに見えた。大した時間を人と過ごさない内に捨てられたのだろう。怯えたり、逆に獰猛そうな素振りは全くなくて、捨て犬は僕の手を簡単に受け入れた。
昔、仲のいい友達が飼っていた奴に似ていたからと、その犬を仮に「ハシバ」と名づけた。ハシバに本当の名前をあげたかも分からない誰かは、人目を気にせず置き去りに出来て、それでいて発見されない事はない、くらいのバランスでここを選んだのだろう。こうしておけば何かしらの行く末がある。拾われるか、通報されて公的機関に移送されるか、もしくは気づかれずにそのまま、自然に委ねてしまうか。未必の故意みたいで、嫌な気持ちにもなった。
だからと言って、そんな気持ちを抱いた僕はどうするのだろう。どうすればいいのだろう。僕には、ハシバを連れて帰ったりは出来なかった。うちは動物禁止だ。母親がアレルギー持ちで、症状も強い。動物アレルギーは重症ともなると結構洒落にならないもので、さっきまで部屋に動物が居たと言うだけでも、酷い嗽が出たりする。何よりその意識で、動物を飼いたいと言う欲求が、僕の家族にはまるで育まれなかった。ただ、そのまま見捨てる選択も出来なくて、当面はこの河川敷で面倒を見る事にした。登下校の道すがらで出来る、副次的で卑小な延命だった。
翌日も、ハシバはそこに居た。次の日も、その次の日も。観察する限りでは、箱から出ようともしないで。それを僕は、日増しに酸化して行く気持ちで迎えた。正しい筈がなかった。僕にとっても、彼にとっても。
捨て犬を見つけた時の対処は調べたけれど、彼を救う幾つかの方法も、環境がないか、あったとしても手に余るものばかりだった。個人にしろ施設にしろ、結局は誰かに引き取って貰うのが前提で、なのにその条件が何よりも重い。
面倒を見るにしたって、資金や時間、場所の問題から僕がしてあげられる事にも限界があった。水はともかく、餌は大した量をあげられない所為で、毎回ハシバはまるで攻撃する様に食べた。
弱りつつあるのは明白で、それでも彼は生きようとしていた。僕が世話をする由来は恵愛じゃなく、あくまで同情と服役だったのに。
そのシーンは近づいていた。
それから数日も、賽の河原で石を積む様に、変わる事ないその慣例をこなした。夏休みは始まっていた。昼にやっていたニュースの予報は「台風は、明日の午後に入ってから夜に掛けて最接近し、猛威を振るう」と言う旨だったのを覚えている。
一九時頃、理由をつけて家を出た僕が河川敷に着いた時分にも、篩に掛けられた程度の微細な降り方なら既にしていた。一粒々々が別個に存在するのではない、全体で一つの天蓋を成している霧雨の中を懐中電灯の光で切り裂いて進むと、それは傷痕を治すみたいに、直後からひたりと閉じて行く。モーセの海さながらに。雨音と雨音の間で、どこからか生まれ来る孤独感だけが、流れずに沈殿して残っている。
ハシバと、それから川の様子を確認する為に、僕は橋脚の陰に進んだ。ハシバは相変わらず佇んでいて、それが何だか、いつも以上に己を苛んだ。当たり前なのに、ここで寝て、ここで起き、ここで暮らしている事に思い至りなんてしなかった。捨て犬に気づいた人は、他に誰も居なかったのだろうか。……それとも。
暗い水面に目を向ける。川幅は六、七メートルくらいだろうか。元々大きい河川ではないけれど、それでも流石にこの雨量で危うさは全く見られなかった。吹いている風も、絹織物みたいに薄く柔らかい。台風の影響と言うより、普段よくある天候の基準から、ほんの少し針がマイナスの方に揺れただけ、そんな印象だった。せめてもと水から一番遠い所に段ボールを移して、背中を向けた。
家に着いてからは普段と変わらない時間を過ごし、寝る準備を済ませる。閉め切った部屋の空気、耳に残り続ける川の音、雨と夜のエフェクト。裏切る様に、明かりを消す。残された手段は一つしかなかった。
小さな夢を、一つ見た。
長い間見ていた気がするのに、目が覚めた時に残されたフィルムの断片を繋ぎ合わせると、実は一分にも満たないくらいの――そんな、小さな夢。
僕は結婚式場みたいに豪奢な無人の広間で、窓際に座って景色を眺めている。高層にある筈なのに酷く平面的で、また窓の格子が邪魔なのもあって、つまらない展望だった。
その時、部屋の電気が消えて、ミラー・ボールが当てられた光を反射する様な、多彩な色が僕を通り抜けた。夢の中の感覚では凡そ二分が経った頃、照明が戻って、さっきまでは壁になかったもの、明るい所で無理矢理にフィルムを再生する映写機の動画にも似た、薄いイメイジが浮かび上がる。
そこには「二時に待ち合わせ」と言う文字と、一つの絵。目を凝らして確認すると、僕は立ち上がって部屋を出る。最後まで支離滅裂な夢らしい夢の中で、目蓋の裏に焼きついた、
覚えのあるあの絵は、フランシスコ・デ・ゴヤの――
――騒がしさに目を覚ました。ぼつぼつと、窓が中硬質な音を絶え間なく発している。その背景で鳴っているホワイト・ノイズ。夏の朝に似つかわしくない、不透明な室内の暗さ。
理解が遅れてついて来る。思わず跳ね起きた。外を見ると、昨夜とは一変して豪雨が世界を埋め尽くしていた。すぐに簡単な衣服を探し出して身に着ける。
ああ、解釈してしまえば、何とでも考えられる。寧ろ今の僕には、不自然なくらい暗示的に過ぎる気さえした。
フランシスコ・デ・ゴヤの「砂に埋もれる犬」。
流れる砂に抗う術もなく、そして抗う素振りさえもなく、命運を受け入れるみたいに、或いは絶望するみたいに、ただ虚ろな目をしているだけの、あの犬の絵。
家を飛び出す。玄関で傘は持ったけれど、走り始めて、一度も差す事はなかったし、そんな悠長な降雨じゃなかった。降って来る一滴々々は、最早石の礫と変わりなかった。痛い。苦しい。雨粒がこれだけ攻撃性を孕むものだと気づいた事はなかった。それでも足は休まずに動かし続けた。
家を出てから五分で河川敷に到着する。川は境界線をなくして、周囲にも溢れ出していた。急いで橋の麓に潜り込むと、見知った姿が、まだそこにあった。
靴が濡れるのにも構わず、舟になり掛かっている段ボールから小さな体を引き上げる。土手の角度を、橋に頭がつくくらいの所まで上って来ると、ハシバを下ろして、彼と一緒に僕も座り込む。もしかしたら、僕があの場所で「飼っていた」所為で、ハシバはそこに留まる事を変な解釈で覚えてしまったのかも知れない。もう逃げ出せない程に衰弱している可能性は……考えにくいけれど、言い切るのも身勝手に思えた。
「っ、はあ……、ほら……お前、助かったぞ」
助かった――白々しい言葉が、自分でも鼻につく。延いては、ここまで駆けつけた事に対しても。辿る運命は変わらない。ここからは、彼の身を専門の保護センターに委ねるのだから。聞こえはいいけれど、それは殆どの場合、殺処分を意味する。
ハシバの頭を撫でて、僕は携帯を手に取った。その時だった。
今、視線の先にある濁流の中に何か違和感が紛れていた。目でを追い掛ける。何か――理解するより早く、本能的にそれが人である事をもう知覚していた。そして気づけば、僕の両足は地面から離れていた。
泥水の中に飛び込む。全身に強烈な抵抗を感じながらがむしゃらに泳ぐ。人間的な動作ではなく、手足は絡繰りの様な機構と化していた。前へ。服が纏わりつく。前へ。息が苦しい。動きが重くなる。前へ。まだ、前へ。
手を伸ばした先で、布を掴む手応え。必死に引き寄せる。脳と体は断絶されていた。自分がどう動いているのか分からない。何故こんな無謀を犯したかさえ。ただ、それを考えるにはもう遅かった。意識は先に岸を目指し、体がその後を追う。水を蹴る。叩く。走る。奔る。
足が着いた瞬間に、自分の体を放り投げる様にして陸へと打ち上げた。腕の中の女の子も一緒に、無理矢理、力任せにして。いや、まだ終わりじゃない。土手の頂上まで引っ張り上げて行く。足が錆びていた。関節は折れてしまいそうな程に軋んでいる。
雨で呼吸が塞がれたりしないかを心配して、彼女を横向きに寝かせた。携帯は握り締めたまま飛び込んだから、とっくに切り捨てて手元にない。目についた家に、助けを求めた。一歩進む毎に足から螺子が飛ぶ。チャイムを押した。待つ間さえ惜しい。反応があった。
「た……っ、助けて、下さい……!」
少しして、相手が玄関から顔を出した。口が勝手に喋っている。住人は慌てた様に一つ頷くと、家の中に消えた。僕は何を言っただろう。ちゃんと伝わっただろうか。直後、携帯電話を耳に当てながら出て来たその人を見た所で、意識は大きく眩いた。
病院に運ばれるまでを、僕はよく覚えていない。精根使い果たしたからか、暫く朦朧としていて、認識力を取り戻した時には僕にも処置が施されていた後だった。いつの間にか、本当は多分ずっと眼前にあった、医師と思われる人の顔を見詰める。
「大丈夫? 君、返事出来る?」
「あ……はい、……あの、女の、子……」
「え? ああ、あの子なら心配はないよ。だから今は――」
皮肉な言い方だけれど、まさに泥の様にして、眠りに落ちた。
それから安全を見てか四日程入院したけれど、検査などに目立った問題はなく、すぐに退院の運びとなった。
僕の蛮勇は、周囲の人たちに多大な心配を掛けてしまった。それに関しては申し訳ないし、間違えば命だって落としていた事も、よく理解している。それでも反省と言えば一切なく、後悔の気持ちも薄かった。
第一、しようと思ってしたんじゃない。行動理念のない、反射的なものだったって言う部分を含めて、ハシバから連鎖的に起こっただけだ。
台風はとっくに過ぎ去って、ハシバの事は諦めていた。仮に難を逃れていたとしても、今頃は衰弱死しているか、そうでなくてもあの場所に留まっているのならいずれ、僕は終止符を打つ為の通報をする。居ない方がいいな、と思った。誰かに救われた可能性が残るから。彼の一生にとって、僕は最後まで酷薄な人間だった。
短い入院の間に、女の子のお母さんが見舞いに来てくれた。会う事はなかったけれど、運ばれたのは同じ病院だ。
「あの子は、大丈夫なんですか?」医師にあの時そう聞いてはいても、改めて現況を知っておきたかった。
「はい、もう問題ありません。様子を見て退院、と言う形になると思います」
話を聞いてみると、僕が助けた女の子は小学六年生で、そんな子がたった一人であの大嵐の中、捨て犬を見に行っていたらしい。――ハシバだ。
「ハ……その犬は、どうなったか、ご存じですか」
「え? ……いえ、あの日は娘を探すのに必死で……」
淡い願望だったけれど、初めから信じてもいなかった。期待値の低い生存パターンの未来が一つ、潰れただけだ。
中々その気になれなくて、一週間くらいが過ぎてから、再び向かった河川敷。当然の様に、彼の姿はなかった。
忘れたくて、忘れた方がいいと自分に言い聞かせて、そして今日までその記憶を、僕は封印し続けていた。
「――おーい、宮下くーん」
「……え? あ、ごめん」
「いやー、何か急にトリップするから、こっちが吃驚したよ。あゆおけ?」
「あ、うん、オーケイ。オーライ」まだ頭が、衝撃と記憶から覚め切っていない。
「えーっと、まあ、当たってた反応だよね。……見ちゃってよかった?」
「別に……困るって言うものではないけど」
当てずっぽうでは無理があるし、偶然その現場を目撃していたと言う可能性も低い。事件を知っていたとして、助けたのが僕だと分かる人間は当時実際に接触した人たちくらいだ。遠巻きに見ていただけなら、僕を特定は出来ない。そもそもあの時、周囲に僕以外の人は居なかった。だから態々、知りもしない人の家まで助力を願いに行ったのだ。
「ほら、ね? 本当だったでしょ。それともまた今度、もう一個何か『視て』みる?」
「……いや、大丈夫。認めるよ」或る種の敗北宣言だ。説明のつかない異能だとしても、僕はもう、否定の効力を充分に持った言葉が全て色褪せているのを知っていた。
「……宮下君はさ、何でその子を助けようと思ったの?」
「分からない。善意とか勇気とか、そんなのじゃない事は確か。ただ、体が勝手に動いてたんだ。褒められる理由は、持ってない」
「そっか……でもそれがさ、動機は何でもいいんだよ、結果的に誰かがちゃんと、幸せになれるなら」遠くを見つめて言う。それこそ、幸せの在処でも探すかの様に。「宮下君も、そうなりなよ。そうならないと、いけないんだよ」
叶うのなら、勿論そうありたい。不幸になろうとする人はあまり居ないだろうし、予測の範疇にある要因は可能な限り回避しようとする。だから、大抵の不幸は理不尽だったり一方的に押しつけられるものだ。その所為で尚更、辛く感じる。
「あたしさ、まだ何もしてあげれてないし、この能力も、あんまり宮下君の役には立たないと思う。自分主観だから。でも、あたしをきっかけに、宮下君の気持ちが、少しでも幸せを目指す方に動けばいいな、って」
「……偶見は、何で、そこまで」
この奇妙な縁に、決して太い繋がりはない。出会って間もない僕を助ける事に、言い方は悪いけれど、さしたる理由やメリットなんてない筈だ。彼女から受ける印象は、単に可哀想だからとハシバを見捨て切れなかった僕とは、本質を異にしたものだ。その熱量は、動力は、どこから。
彼女の目を見る。その目が、強い光を湛えて僕を見詰め返す。
「あたしね、……『そう言う事』されてる人の気持ち、分かるつもりだよ」
「え?」
「そんなの嫌に決まってるじゃん。だから、戦うのでも、逃げるのでも、どんな選択でも気にしちゃいけないんだよ。人はね、幸せにならなきゃ」
「偶見……?」
「未来を選ぶのは、君なんだよ、宮下君」
そうしていつもの様に笑った彼女の言葉と、その笑みの下で抱く強い思いの理由を、僕は罪深い程に知らなかった。
(九月 了)