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生きて、いたくても――Sep#3

 
 僕が振り向くと、一人の小柄な女子生徒が居た。僕だって高身長ではないけれど、その僕より頭一つ分くらい背が低い。靡いた長い黒髪が風の波を可視化して、空の青を撫でながら情景に融け込み、僕の網膜に画を描き込む。
 どこか猫を思わせる、光の宿ったアーモンド・アイと、その上で切り揃えられた前髪。可愛らしさの中に、凛として、意志の強さを感じさせる端整な顔立ち。何よりその立ち姿や存在感にはどこか、ただの人物画ではなく、意識された肖像画の様な印象―― 
「だからやめとこうよ、痛い思いするだけだからさ。死ぬ気で飛び降りたのに失敗じゃカッコ悪いし、でも重傷にはなって、で、ビビって二度と出来なくなる。それ、馬鹿らしくない?」
 ――は崩れ去った。驚く程フランクだ。それにもし、僕が飛び降り自殺を企てている様に見えたとして、こんな緊張感のない止め方があるだろうか。そもそも、この落差って死ねないのか。いや、と言うかバレた。箝口の交渉をするべきか。どこから入ればいいのか分からない。
「あ……えっと、取り敢えず、飛び降りはしないん、だけど……まず君、誰?」
 重要ではない事から切り込んでしまった気もするけれど、何せ僕は彼女を知らない。それは前提であると同時に意味以上で、彼女は今まで、ここに来た事がない筈だ。なのに、不自然なくらい自然に振る舞っている。ここの存在に対しても、僕の存在に対しても。
「え? あー、知らないか、知らないよね。ごめんごめん」
 彼女は一息置くと、
「あたしは、偶見珠実、って言うの。よろしくね、宮下君」
 と自己紹介した。どうやら、彼女は僕を知っているみたいだ。

 残念ながら、僕は友達が少ない。別のクラスは疎か、自分のクラスでさえ、名前を思い出せるか怪しい人も居る。彼女に関しても、記憶の糸に引っ掛かる事はなかった。彼女の様に気さくな性格なら、僕とは違って、交友関係を築くのに難儀を感じたりしないのだろうし、僕を間接的に知っていてもおかしくはない。水面に石を投げ込めば波紋が生まれる様に、そこにアクションがあれば影響し、周囲に広がって行く。その図式を知ってはいるけれど、僕は投げるべき石を持っていなかった。
「……よろしく、えっと……た、たまみ?」
「変な名前でしょ? 『偶さか見えた真珠の実り』って書いて、『たまみたまみ』。あたしは大好きなんだけどね、この名前」
 そう言って、にっこりと笑う。大きな目が細められて、三日月みたいな形になった。不思議な魅力を醸し出す、絶妙な表情。
「それで、その……偶見」
「お、何? いきなり名前呼び? わ、結構大胆だねー」
「いや、えっと、違うから、苗字の方のたまみで……」
「あっはは、可愛いなぁ。ちょっとした冗談じゃん」コミュニケイションの一環、持ちネタみたいなものなのだろうか。とは言え何だか恥ずかしくて、それならあだ名でも考えてやろうかと思ったけれど、凡そ女性相手に発していいとは思えないものしか生まれなくて僕は諦めた。発想が貧困だ。
「ごめんね、話遮っちゃった。何?どうぞ」
「その、まだ纏まってないけど……えっと、どこかから、僕の事見てたとか……死のうとしてる様に見えて、ここに来たの?」目視されるポイントがあるとすれば、警戒しなければならない。
「んー、そうだなぁ……はっきり言っちゃうとさ、死のうとしてる様に見えたんじゃなくて、

 実際に『視た』んだよね、落ちる所を。三日前」

 ……。
「は?」
 落ちてない。しかも三日前。それが罷り通ったら時間モノか僕が幽霊オチかのどちらかだ。
「だから本当は、先に一回来てたんだ。待ってようと思って。でもさ、鍵あるじゃん。困ったよね。あれってもしかして宮下君がつけたの?」
「え、いや、違うけど」……やっぱり、彼女は屋上に来た事がない。南京錠は毎回掛けた事を確認している。それを、彼女は知らなかった。
 だとしたら何故、今日になって、突然。
「じゃあ学校の? 元々あった鍵? ピッキングかー。褒めていいのか分かんないけど、凄い特技だね」
「そうじゃなくて、三日前、見た、って……?」
「あ、そうそう。馬鹿にしないでね?すると思うけど」
 彼女の双眸に湛えられた光が、増した気がした。
「あたし、『視える』んだよね。未来が」
 
 答えは、答えになっていなかった。僕の質問と彼女の返答は互い違いに積み重なっただけで、パズル・ゲイムみたいに消えてはくれない。
「……み、見える? 未来?」
「うん、未来視。予知能力とか、プレコグニション? って言うのかな。あんまり定義とか詳しい事知らないけど、『視える』事に違いはないよ」
 彼女の艶やかな唇から出て来る単語の全てが、固体の様に思える。耳から入って来るまではスムースでも、その先で脳髄の表面にぶつかるだけで、内部へと全く浸透しない。
「もしかして……超能力がある、って話をしてるの?」
「まあ、同義だね。それだけ言っても信じて貰えないだろうけどさ」彼女は一歩引く言葉を添える。多分僕が、怪訝そうな顔をしていたから。それでも偶見は、悪戯っぽく笑ってつけ加えた。「だけどさ、実際に体験したら信じてくれる?」
「出来るの?今?」
「出来るよ」大見得を切った。「って大見得切って言いたいんだけど」切っていなかった。
「えっとね、三日前に使っちゃったばっかだから、大した事は分かんないかも」
 それだけ置き去る様に言い残すと、彼女は静かに目を瞑る。一秒、二秒。そのまま微動だにしない。三秒、四秒、五秒。……様子がおかしい。まさかとは思うけれど、今、「未来視」なるものが実行されているのだろうか。
 傍目には何の変哲もない、至って平々のロケイション。超能力と言う特別らしい演出もないまま、暫時の沈黙を経て、偶見は瞼を開ける。
「……げ」即座に苦い顔になった。
「げ、って何」
「いや、個人的な内容。それにちょっと、『未来視』の証明になり得るかは分かんない」
「でも、何か見えたの?」流石に疑いを拭えないまま、僕は尋ねる。
「うーん、『視えた』っちゃ『視えた』けど……まあ、一応話すよ。……宮下君は屋上ってどれくらいの頻度で来るの?」
「……学校に来てる日は、毎日。来ない時間は時々あるけど、来ない日はない」
「え、毎日? えっと、例えば、雨の日は?」
「それは、ほら」僕は偶見の後ろを指で示す。この平面な屋上に突き出した塔屋は結構な大きさをしていて、校内と繋がった階段のある扉とは反対側にもう一つ、倉庫の扉を擁している。その向かいには高置タンクらしき構造物があり、その間に塔屋側から庇が伸びている。扉から庇に行くまではともかく、庇の下に入ってしまえば、余程の大雨でもない限り、滑り落ちた滴が時折跳ね返るくらいで、濡れる事はない。
「ほえー。何かお誂え向きなんだね。毎日かぁ……。じゃ、来ない時間って言うのは?」
「単純に、何か用事がある時、かな。先生に呼ばれてるとか。じゃなければ、ほぼ来てる」
 喋り過ぎた、だろうか。ここへの出入りは他言無用にして欲しいと頼むと、彼女はあっさり了承してくれた。この能力に関しても人には話さないでね、との交換条件で。話す訳がない。
「そっかぁ、うーん、これ成立するかなぁ……宮下君は三日後の昼休み」彼女は頼りなげな表情で宣告する。「屋上に来ない。つまり、昼に何かの用事が出来る」
「……え?」
 そんな事、と思う様な内容だけれど、正直驚いている。昼休みは唯一例外で、絶対屋上に来る時間だから。と言うのも、僕は昼食を必ずここで済ませる。何か用件が出来たとしても、流石に弁当一つ食べられない程の時間は取らない筈だ。状況によっては必ずしもそうでない時もあるけれど、たった三分だろうと、僕は息継ぎをしに来る。
 もしその三分すら取れない、そんな理由があるとすれば。
「ふむふむ、成る程ね。まあだから、宮下君がその日お昼を食べるかどうかまでは分かんないけど、少なくともここじゃないと思う」
 彼女は軽い口調のままで、確度の高い情報みたいに断言する。ただそれは、僕が無理矢理にでも屋上に来れば、覆される内容の筈だ。
「ああうん、そうだね」簡単に肯定されてしまった。
「そうだね、って……」
「別に、絶対的なものじゃないから。一つ事象を回避しても、次から次に別の事象が起きて、どうやっても結果が一緒になる、みたいなのとは違うんだよね」
「そう、なんだ」
「あたしが『視てる』のはあくまで現在時点の未来。じゃなきゃあたしが来た意味ないし。死ぬ気がなかったんなら、事故だったのかもだけど。でも次は現実になると思うよ、少なくとも昼に何かあるのは。宮下君自身の問題じゃなく、外部からの干渉だとすればね」
 ……僕の死んでいた未来なんて、本当にあったんだろうか。「……自信が、あるんだね。まあ、疑うのは、結果が出てからにするよ」
 鵜呑みにこそ出来ないけれど、こんな突拍子もない事を言い出すだけの理由はあるんだと思う。ありがと、と彼女は一笑した。
「あたしの能力って、『視えてる』映像はあたしの主観なのね。だから宮下君に何があるかは分かんない。けど、映像の中で時間確認した限り、昼休みの終わり際になってもここは開いてなかった」
 彼女は繰り返す。「宮下君は来ない」


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