許斐堂商店の解けない魔法(短編・2/2)

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 一時間の猶予、再開の目途を店頭に貼って、彼女はドアーを閉めた。奥の小さな座敷へと招かれた俺の前に、箱が置かれる。ちょうど宝箱みたいに天井が弧を描いていて、開け口には不相応なまでの、いかにも頑丈そうな南京錠が取りつけてあった。
「彼は私と同じく、本も、謎も大好きでね。ここで共に、長い時間を過ごした」
 何者であるか、その「彼」に対して、芳野さんは最後まで説明をしなかった。
「病気だったんだ。受け入れて、足掻こうとはしなかった。『持って行きたい本があるんだけど、焼くのは忍びないなぁ』なんて、へらへらしながら呑気に言っていたくらいでね。……私も分かっていたんだ。大切な本を燃やせない彼の気持ちも、そして、助からない事も。何も言えなかった。私が持たせたのは結局、ありふれた花と品物だけだった」
 それでいい、と俺は思う。まだ俺は青二才かも知れないが、その人が願う、正しい旅立ちになった筈だ。
「いつから用意していたんだか、こんな特注の錠まで作らせて、私に残して行った――『解けない魔法』、最後の謎。彼曰く、『近い内に、ヒントも出せなくなるだろうけど、謎は錠だけで完結しているから』との事だよ。条件、なんだ。この状態から必ず開けられる、と言うね」
「……何か、試してみましたか?」
 ダイアルは四桁、m000。mのラインは全てがアルファベットで、そこではmが0、初期配置なのだろう。やや端は隠れているが、p、t、m、a、n、と並んでいる。
「いや、駄目なんだ。……一方にしか回せない仕様らしくてね。釣り針のカエシの様な機構が内部にあるんだろう、回す毎にストッパーが掛かって、一度回すと前に戻せない。tとm、9と0の間は元々ロックされていて、最後まで行き切ってしまったら、もうどちらにも動かせなくなる、つまり――『ダイアルのどれかが一つでも正解のパターンを通り過ぎたら、二度とやり直しが利かない』、そう作られているんだ」
 流石に、一筋縄ではいかないか。ちょっとした思いつきも、気軽に試せはしない。目の前の錠が、重い。
「……保証は出来ませんけど、いいんですか? もし俺が、解く事になっても」
「私が解けるなら勿論、そうしているがね……謎は解かれる為にある。きっと、彼も望んでいるよ。……それに、実は何人かにも、声を掛けた事はあるんだ。縛り過ぎてはいけないから、一箇月、いや、一週間でいいと言ってね、考えて貰った。……だが、」
 誰も辿り着けない、そもそも、ダイアル一つ回しさえ出来なかった。破られない、厳しい制約。……彼女はどれくらい、縛られ続けていたのだろう。
 時間が訪れる。許斐堂商店の営業は、静かに再開された。
 
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「ほんの少しだけ、分かっている事はあるんだ」。彼女の助言は、聞かないでおいた。
 自力で一歩ずつ、情報を踏み固めて行く。manから始まりptで終わる、一〇文字の英単語。まずこれがマニュスクリプト、「原稿」である事は判明した。……クレプトマニア、「盗癖」ではなさそうだ。
 当然と言えば当然だが、綴りに同じ文字は使われていない。わざわざ英語入りの錠を特注したのも加味して、答えは、ここに使われているアルファベット一文字と数字三つから、何かしらの意味を作れるものの筈だ。
「……期限はどうする? 君も、決めておこうか」
「まあ、暇な時期ではないですけどね。リタイアは、自己申告制にします」
「分かった、……ありがとう。写真などは撮ってくれて構わないし、ここで現物を見ながら考えてくれてもいい。明日以降も、君が挑みに来たのなら箱はすぐに出そう」
 芳野さんは店へと戻って行った。調べる事も多くなりそうだから、その日は俺も素直に帰宅した。
 本屋、と言う状況からまず考えたのは、図書の分類番号。ISBNは長過ぎるし、答えとなる特定の書籍がそもそも分からないから除外する。卵も鶏も、先に立てない。Cと数字四つの組み合わせからなるCコードだと、文字群に「C」は確かにあるが、桁がはみ出す。NDCなら数字三桁で合致しているものの、こっちは最初を「N」と断定していいかが怪しい。
 次に、スラング。Aを4で表す様な形で、答えは英単語である可能性。つまり最初だけは、数字に置き換えられない文字だ。残りを英字にしなかったのは、推理ではない推測が成り立ちやすいから。およそ最後は子音だろうし、更に言うと、二文字目か三文字目が母音である確率はもっと高い。二六個の英字に対し、枠は一〇個。考慮に値しない文字が増えてしまう。数字にしたのはそれゆえの攪乱、と、解釈だけは立派だが、この線も捨てていいだろう。
「……原稿、か」
 多分、選ばれた言葉だ。一〇文字、綴りに被りがなく、特定の文字が入った他の単語と照会すれば、最初を絞り込める可能性はあった。だが、それも推理ではない。
「そして……アリス・モース・アール」
 錠と箱の写真も撮らせて貰った。箱は主に木造、実にシンプルだが、目立つ唯一の要素として英文が書かれている。
 Yesterday is history,
 Tomorrow is a mystery,
 Today is a gift.
 アメリカの作家、アリス・モース・アールが一九〇二年に著した本の中の一節。……気にはなるのだが、謎は錠だけで完結する、の条件から、恐らく箱は無視していい。
 錠にはアラベスクに小さな丸い果実、横向きの二頭の獅子みたいなレリーフなど、やや複雑に模様が敷き詰められている。もしこれが「ダ・ヴィンチ・コード」や「ガウディの鍵」だったなら、俺に解けはしないだろう。
「……やあ少年、首尾はどうだい?」
「芳野さんにも分かっている事しか、まだ分かっていないと思います」
 最初のアルファベットに意味を見出すとすれば、例えにメシエ天体などを挙げてみても、M104ならソンブレロ銀河、と言った具合に、「何か」は指し示せる――ただ、俺の思い浮かぶ限りのもので、答えに該当しそうなものはない。芳野さんなら気づく事があるかも知れないが、これも同じく条件と矛盾するし、まず彼女自身、この謎には幾度となく多角的に挑んでいる筈なのだ。
 暫くはそんな具合で、机上の空論を並べ立てていただけだった。許斐堂商店に来たのは、四日振りだろうか。実物にまた触れておきたかった、そして何より、俺は気づいた。謎を解くに当たって、まだ確認していなかった大きな事項がある。
「一つ、お伺いしたいんですけど」
「うん? ああ、話してみてくれ」
「――その人は、『勝利条件』について言及していませんでしたか?」
 瞬間、周囲の空気ごと、彼女が静止する。この反応は、核心をつく様な手応えに思われた。しかしそれも、元通り動き出す。数秒で、平常に。
「いや……おかしな点はないね。『この錠を解く事が出来るなら君の勝ち、但し――これは当たり前だけど、錠や箱を壊したりせずに、ちゃんとダイアルを正解に合わせて』、そんなところだったよ」
「……そうですか、分かりました」
 それだけを明らかにしておくと、座敷に通して貰い、改めて錠と対峙する。眼前にあるだけで、イメイジがしやすい。指先に載せてみると、正しい持ち重りがした。
 芳野さんの大切な人は、錠にどんな意味を持たせて、何を正解に据えたのか。思索する。原稿、四桁、組み合わせ。想像する。謎は錠だけで完結し、錠を解く事が出来るなら、それが勝利の時。推理する、考証する、探究――
 ――何を、正解に据えたのか?
 激しい違和感。次の瞬間には、全てが崩れ始めていた。頭の中で遡る、条件と齟齬はどこにもない。着目すべき箇所はたった一つだけで、答えは死角にあった。ずっとすぐ側に、隠されていたのだ。
 それが指し示すところへ向かって、俺はダイアルを回した。
 
 芳野さんには黙っていた。その時が訪れるまで、俺には、正解が分からなかったから。
 
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「確かに、間違いないんだな?」
「……ええ。任せて下さい」
 ここ暫く、二週間程も通い詰めた。日常の合間を縫っては錠と向き合う、ただひたすらに準備を必要としていた。やがて謎の向こう側、全ての待つ地点を見定めてから、初めて俺は彼女に報せた。
 ダイアルはm000、初期の形のままだ。そっと上へ捻り、一の位を変える。
「……回したね。もう、後には引けないぞ」
「重要なのは……そこなんです。今まで誰も、ダイアルを回してはいなかった」
「当然だろう? 君だって、仕様を忘れた訳ではあるまい」
「勿論。ただその所為で、条件が足りなかった。『誰もこのダイアルが戻らない事を、実際に証明していなかった』んです」
「まさか、嘘だったと言うのか?」
「残念ながら」今し方1になったダイアルに、逆らわせる動きを試す。反応は固く、力ずくでも動かない事を示した。「その条件は、ちゃんと謎解きのルールに則ったものでした」
「おい、君……正解は掴んでいるんだろう……?」
「要らなかったんですよ。最初から、正解なんて」
 短い悲鳴が上がった。俺はお構いなしに無作為に、ダイアルをぐりぐりと進め始めていた。数字が、文字が、見る間に乱れる。
「待て! 何をやっている!」
「ご覧の通り、証明の続きです」
「ああ……、君には――失望したよ。確かに最悪、失敗しても強引に壊す様な真似は出来る、だがな! 謎の求めた答えではないし、私にとって、それを許せる代物でもないんだ!」
 そうだ。あなたは彼を、大切にし過ぎた。
「落ち着いて下さい。ここでもう一つ、条件を確認しましょうか。南京錠の性質として、『初期位置のm000で開かない、と言う事は、これは正解ではない』。ですね?」
「……始まったのは言い訳か? 狂人ごっこか?」
「あなたが冷静だったら、もう気づいている筈だ。正解パターンに合わせてから開く、それが南京錠を解く手順になります。内部の機構に引っ掛かりがなくなるから、錠が抜ける仕組みですよね、では……南京錠を掛けるには?」
 息を飲む、狼狽の表れ。
 その刹那の衝撃の広がりを、小さな空間で俺は確かに感じた。
「内部の機構に引っ掛かりがあれば、錠は挿せない。だから同様、『正解パターンに合わせて閉め、回す事で施錠する』。正解が何であれm000ではないのなら、この錠は既に必ず、一度は回されているんです。しかしこれは当初から、m000の状態で渡された」
 錠には、決定的な矛盾があった。
「ダイアルは、戻す方法が用意されているんです。m000だったのは、単に初期位置だからではなく、矛盾を示す為に、作者がわざわざそうやって直しておいた」
「そん、な……そんな、事が……」
 解決編は、まだ終わりじゃない。俺は次を目指す。t999、それぞれの桁が全て終着点に辿り着く。
「このダイアルは、一方にしか回せない。条件は常に有効でしょう。だとすれば残す箇所はここだけだ。『tとm、9と0の間は元々ロックされている』。このロックが外せるんです。そして条件、『錠だけで完結』から、ロックを外す機構は錠自体に備わっていて、別の鍵などが不要である事を表している。念入りに調べてみましたけど、錠の可動部はダイアルか閂部分だけ。……閂部分は、より深く押し込める事が分かりました」
 実際に披露してみせる。指の先で、ばねか何かの反発する力が働いていた。そのままダイアルを――上に、回した。
「……これでtはmに、9は0に帰って来ました。確認しておきますけど、芳野さん、勝利条件は覚えていますか?」
「ああ……『開ける事が出来るなら勝ち』、だ」
「聞いた時に思いました、かなり微妙なニュアンスですよね。条件は『開けろ』とも『正解を当てろ』とも言っていない。『開ける事が出来る』。そう、俺たちはこの方法で『総当たり』と言う開け方が可能になり、いずれは『正解を揃えて開ける事が出来る』状態になりました。錠の正解に拘らず、錠自体の矛盾に気づく事が重要なトリックだったんです」
 勝利条件は満たした。だが、彼女の納得には不足しているだろう。……大丈夫。
「では……開ける事は、前提ではなかったのか?」
「総当たりだとしても結局は、続けていればいつか解かれるでしょう。錠と箱はただ、その時を待っていた。あなたが開く『いつか』をね。でもそれは……互いにとっても長過ぎた。ずっと縛られてしまっていた」
 もう、歩き出していい頃合いだ。今まで動かされなかった、ダイアルの様に。
「今日で、終わりにしてみませんか」
 
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「先に言っておくと、『解けない魔法』の正攻法はあくまで総当たりです。正解のパターンは本来、推理で辿り着く形には敢えて作っていなかった筈だ」
 情報はないに等しい、だが大いなる意味を持って、この箱は存在し続けていた。
「その人は……亡くなる前、あなたにこんな話をしていましたね。『持って行きたい本があるけど、焼くのは忍びない』。そして恐らく、棺に入れて燃やす事を実際、望まなかった」
 ダイアルの一桁目を、cに合わせる。
「しかし彼は自身の中に、光を探し当てていた。この箱は見立てだったんです」
「……見立て?」
「箱は、棺の代わりでした。燃やす事はとても出来ないけど、どうしても一緒にありたかったものが、この中に納められています」
 続いて、2。
「さて、今欠けているのは、ずばり火です。……芳野さんならご存知だと思いますけど、『華氏451度』と言う本に覚えは?」
「知っているが……つまり、それは、」
「ええ、レイ・ブラッドベリの名作SF小説。そのタイトルは、本の素材である紙が自然発火する温度から取られています」
 次の桁は、3へ。
「但し華氏は、日本では一般的に使われていない。基本は摂氏、セルシウス度です。『℃』の記号からも自明の通り、その頭文字はc。華氏451度を摂氏に換算すると、約233度」
 最後の数字を回す……3。
「ゆえに正解は、c233。彼はこの錠を火に見立てた。……そしてあなたが棺を開く時、彼はあなたの目の前で蘇る――」
 その封印が、ついに解かれる。
「――思い出として、ね」
 箱の中へと、光が差した。
 彼女の手によって、内容物が取り出される。文庫本と、数冊のメモ帳。「原稿」の意味を考慮すると、芳野さんさえ知らない、未発表の謎解き問題だろう。
 そして、写真。芳野さんと彼の二人が、常に寄り添って写っている。柔和な表情、その顔を俺は初めて拝んだ。立ち入る隙のない、楽しそうな一瞬。全てに於いて、簡単に燃やしてしまえる品々ではなかった。
 矛盾に気づいた時から総当たりを繰り返し、事前に答えは知っていた。だが、箱だけは俺一人で開けたりなんてしなかった。c233の意味を理解して、錠に秘められた過程と、中身の予想が多少ついていただけだ。……憎い事をする。俺はただプレゼンターとして、最後までその遺志をなぞる。
「……記念すべきこの日に、あなた宛のギフトが届きました。これまであなたと一緒に居たヒストリー、これからあなたに解いて欲しいミステリー。過去、現在、未来、彼はまだずっと、あなたと共にあり続けるでしょう。あなたに残した、解けない魔法として」
 彼女の背が、小さく震えた。
「ここからは、二人だけの時間です」
 もう、何も見なかった。静かに座敷を、商店を後にした。
 
     エピローグ
 
「君も大学生か、早いものだね。遠くへ?」
「言う程でもないですけど。来る機会は、流石にぐっと減ると思います」
 あの夏から、随分と経った。妙な格好をつけて退出しただけあって、彼女の泣き腫らした顔を見る勇気がなくて、足は遠のき、そのまま一箇月くらいは避けてしまっていた。内心覚悟を決めて、外面だけしれっと装って商店を訪れた時、芳野さんはいつも通りの表情、いつも通りのトーンで、しれっと感謝を述べた。それでよかった、それが全てだった。俺たちの、ちょうどいい距離感。以降変わらず、この関係は細々と続いて来た。
「もう、少年と呼ぶのはやめにしないとな。随分と今更になった、名前を教えてくれないか」
 少年。耳の馴染みはよかった。失われてしまうのは、残念に感じる。この地と、商店と、彼女と離れてしまう事も。
「……最初に出会った時、誕生月当てをしましたよね」
「ああ、覚えているよ。それが?」
「実は少しだけ、狡い手を使いました」
「狡い手?」
「カンニング、に近いかも知れません。何でそんな、特殊な事を知っていたか」
 不思議そうな彼女。最後にやり込めた気になって、一人密かに楽しくなる。
「そんな素振りはなかったが」
「少しでも運命が違っていたら、俺は知らなかったでしょう」
 そう、俺は決して、彼女と一緒にはなれない。
 だって、おかしな事になってしまうから。
「――水瀬吹喜、五月生まれです。では、また」
 ちょっとした種明かし、そんな小さな謎の答えを、今なら、告げられる。


 あなたには「淡い夢を見ていた」で始まり、「今なら告げられる」で終わる物語を書いて欲しいです。
#書き出しと終わり
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