ギルド(短編・1/2)

 守れない約束があった。それは多分、記念日だから。
 
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「秋思郎さん、……お代わり、貰えるかな」
「あっ、あたしもー。んーじゃあ、由希と同じのにしよっかな」
 数分前から、BGMは色気のある弦楽器に変わった。深い時間の窪みに溜まり込む雨みたいな音だ。マスターが夜を用意していた。軽く返事をして作る、二人分のゴッド・ファーザー。氷を普段より足して、量は少なめにしておく。由希さんはこの度数にして二杯目だし、琴乃さんも強い訳じゃない。ディサローノ・アマレットは、人を騙してしまうから。
 例えば新宿の様な、けばけばしい光と闇の混合とはまた違う、互いに鳴りを潜め合った明暗の街。曰く、恐いイメイジの歓楽街で、グルナードもその一角を担うバーだ。だからご多聞に漏れず、新規よりも二度三度、或いはそれ以上の来店を重ねる常連が数を占めている。彼女たちを取ってみても。
 勿論、例外なく誰しも初めてはあって、二人のその時の事をよく覚えている。琴乃さんはどこか内側に純真さを秘めながら、華美ないかにも場慣れした夜の女性、常連にも幾らか似通ったタイプをすぐに見つけ出せる人間の型を思わせたけれど、由希さんはその意味で正反対だった。雰囲気こそ大人びて、小狡い静けさを纏っているものの、外見だけはとても幼くて、損をしているんだろうな、と感じた、こんな街の近くに生きていて。実際、オレも建前として年齢確認だけはさせて貰わざるを得なかった。どう繕ったってやっぱり不釣り合いな顔写真が、二四歳の免許証には添えられていた。
 ここがバーだ、と言う話ではなく、或る種、夜の仕事ではあった。客として最も古株の富永さんの相手は殆ど、足立さんが務める。それぞれのお気に入りが居て、男女の仕切りが自然と存在した。
「あのさぁ、秋思郎さん。秋思郎さんって秋生まれ?」
 笑って誤魔化す、誕生日を他人に教えた事はなかった。「いえ、全然」
「えー? あ、もしかして源氏名なんだ?」
「そう言う訳でもないんですけどね、ほら」
 財布から取り出した免許証で、はっきりと岬秋思郎の名前を提示する。
「ふーん、でも由来はあるんだよね」
「私も、本当は気になってるんだよね。綺麗だし、シューシロー、って語感も好きで。つい、呼びたくなっちゃうな」
「ちょっと長くなりますよ、聞きたいですか?」
「聞きたいって言ってるんじゃん」
 軽はずみなトーク。オレも随分と口が回る様になったな、なんて思いながら。
 何もない、由来なんて。「秋思郎」がちょうど珍しいで済む説得力の、嘘っぽくならない絶妙なラインだっただけだ。
 
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 確かにこの街は、大いなる影を抱えている。後ろ暗い世界。慣れてしまえば感覚は鈍る、その点で、オレは期待していた。
 殺人の起こった現場を二度見た。最初に至っては、第一発見者がオレだった。
 バーから自宅へ帰る途中のビル群の真ん中、特異点みたいな公園の片隅に、ヴィニル・ハウスを想起させる喫煙所があった。屋外で、排煙設備を擁さないから、天井は丸っ切り開放されて、紫煙で明け方の空を殺めるのが見える場所だ。
 その透けた壁から両足が分かった。オレはもう毒されていたし、まさか遺体だとも考えないから、きっちり一本を吸い終わってから確認した。首にへばりつく索状痕と――だから、血ではないだろうけれど――左頬に赤く書かれた数字の2。ああ、死んでいる。彼の背景を読み取る事は出来ないから、どちらの不幸の末なのかは知る由もなかった、被害者と加害者の。
 無関係の振りをする事は流石になかった。オレは警察に連絡し、度重なる聴取もしっかりと受けて、早く捕まるといいですね、なんて無意味な駒を置いた。本心ではある。少なくとも、誰かにとっての悲愴だから。こんな世界に身を浸すのは、決して心を悪に偏らせたい訳じゃない。その希望が空疎な無感動だとしても、平和である方がいい。どれ程チープでも、本心で、そう願う。
 二度目は偶然だった。周辺が騒ぎになって、オレも遠巻きに見たと言うだけの。
 その男性は路地裏で胸を赤くして、手の甲に5の文字を刻まれていた。再び遭遇したオレは事態を察したけれど、未だ、どちらの不幸かは判別が出来なかった。
 つい三日前に、このY県内で直近の殺人が七件目になった。警察は関連を調べている、報道はそこでとどまっていて、多くは語らない。ただ、オレはもう理解している。新しい犠牲者も含めて、きっと皆、「数字持ち」なんだって事。全く繋がりのないものも、中にはあるかも知れないけれど。
 あまり違いはない、関連の有無は正直どっちだっていい。人が殺されて、人が殺した。憂いだろう、同じ舞台上でも、そうでなくても。劇薬みたいな人の死を扱って横たわる現実は、トラジコメディ-にはなれないんだから。
 
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「秋思郎さん、『おとなりさん』って、何?」
 その日、彼女たちは三人だった。時折連れて来る、少し上に年齢の離れた人。葉月さんは殆ど喋らない。他者の会話を聞くのが好き、まさにそのものの、ずっと座標通りの微笑みを浮かべている女性だった。葉月――それがいつだったかは忘れたけれど、彼女はその時に生まれたんだろうか。
「どうしたんです、急に」
「ほら、度々マスターとかが言ってるから。隣は空きテナントだし、何なのかなって」
 琴乃さんよりも、却って不穏な闇の街が似合う危うさの由希さんだった。今更取り繕う効果もなく、話の種として、オレは疑問に答える。
「――『ニンベン師』って、ご存知ですか?」
「ニンベン、し?」
「あーあたし知ってるよ、お札とかぁ、パスポートとか偽造する人でしょ。ヤクザのゲイムで見た事あるもん」
「ええ、そのお札やパスポート、書類だとかを偽造する職人、とでも言えばいいんですかね。詐欺事件を隠語で『ごんべん』、偽造事件を『にんべん』って表すのと同じで、それをする人を、偽造の『偽』から取って、ニンベン師って言うんです」
「えっと、それが、おとなりさん?」
「隠語って、世に広く知られたら意味がないんですよ。だから改めて作るんです。……『ひととなり』って言葉、あるじゃないですか。彼のひととなりを表す、のひととなり」
 今は「チャカ」が一般に通じ過ぎているから、警察の拳銃も「腰道具」と称するらしい、と聞く。本当かは確かめ様もないけれど、理屈は分かる。いずれまた変わるんだろう。
「あーうん、大事だよねぇ」
「あれって漢字で書くと、『為人』なんです。ちょうど、『偽』って字の分子だから、そこからもじって、偽造職人をおとなりさんって呼ぶ、のが習わしなんですね。……あくまで、この辺の、みたいですけど」
「……それ、犯罪なんじゃ?」由希さんの表情は緩やかで、嫌悪を示そうとはしていない。彼女の余裕と、この街の住人である証左。一瞬、瞳孔と瞳孔が直線で結ばれて、オレも不愉快には思わない。
「勿論、厳密にはそうなんですけどね。ただ、作られたものが必ずしも犯罪的な使われ方をする訳じゃないんですよ、偽造証書って」
「へー、そうなの? よく分かんない、どんな風に?」
「所謂『身分証明書』って、自分の存在を約束するもの、と捉えた時、価値があるんです。例えばですけど、性自認が違う人とか、普段は生真面目なサラリーマンだけど、赤ちゃんプレイが好きな人とか。そんな方々が、今ある自分ではない自分、『本当の自分』を保証して形にする為に、そこに別の名前を持たせて、おとなりさんへ身分証明書を依頼するケイスはままあるんですよ。お守りみたいなものでね。……こんな街の、こんなところにあるバーなので、色々と情報は入って来ます」
「じゃあ、どこか近くに『おとなりさん』の店が?」
「まあ、察して下さい」
 嘘ではない、確かにあるからだ。「おとなりさん」を抱える――と言うよりも、一見、健全な業態を装いながら、裏で偽造を請け負う店が一軒、ここ以外にも。
「そうなんだ、初知りー。犯罪なんだけど、何も目的が全部纏めて悪、じゃないんだねぇ」
「ですね。それに一応は職人なので、自らの仕事にも誇りを持っていますよ。堅気の職人さんたちは同列に語られたくないでしょうけど、やってる内容は緻密で、まさに『職人芸』の域に入っていますから。たまにライヴのティケットなんかもやるらしくて、そんなものの偽造はつまらない、やり甲斐がない、なんて耳に挟んだりもしますね」
「……何か、ロマンのある話だね。場合次第でも、人を救う犯罪、って」
「それを笠に着て義賊振るつもりもないとは思いますけど、彼たちにとっては生業を超えた、立派な『仕事』なんですよ。使い方は、買った側の領分ですし」
 俯瞰的に第三者的に伝えたつもりだし、何せ中身が非日常だ。きっと目の前に居る男が、当の本人だとは考えもしないだろう。それでいい、合っている。この話を面白いと感じるだけの人たちは、それで。
「まあそうだよねー、包丁だって同じだし」
 比喩ではなく、冴えた琴乃さんの言葉だった。ふと、5の彼を思う。5の彼を思う時、それは運命の様に振舞って、2の彼も共に思う。
 この店が、辺りも夜も見通せる造りでなくてよかった。
 記憶が間違っていない限り、今日浮かぶのは三日月だった。
 
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「なあ岬、お前の見たホトケさん、どっちもマエがあるんだと」
 以前は違う店だったのか、今の調理室とは別に食堂の様な部屋がある。テイブルの並ぶ側は休憩室、奥のキッチンは仕切られた喫煙室として使われ、掃除こそするものの殆ど廃墟めいた中に、換気扇だけが微かな心臓としてあった。
「……前科五犯なんです?」
「いいや、そんなもの凄いやつなら記憶にある筈なんだがなぁ」
 ハイライトの煙が真っすぐに飛んで、夢だった事を思い出したみたいに消える。情報屋を気取っている訳ではないけれど、マスターの耳は大きい。「どうやら『2』の方はそうらしいんだよ。『5』は何度もお縄を頂戴したんじゃなくて、余罪とかの諸々を含めたらそうなのかも知れんな」
「明日は我が身だと思って、気をつけないといけませんね」
「よせやい」それを笑ってくれるマスターだった。「捕まった訳じゃねえんだ」
「……でも、マスターさえ把握していない『数』を、遺体に残したんですか」
「そりゃ知らねえよ。……ああ、今、何人だ」
「七人です」
「そうか。……まあ、偶然っちゃ偶然だがな、岬の見たやつ以外に二人、少なくともマエがあるのは俺にも分かってんだ」
 見当違いなんだろうな、とは、オレでも思う。マスターも本気にはしていない目と口だ。だとしても、罰当たりの理由を持ってしまっている事が少し、虚しく残る。どんな前科だったのか、訊くのはよした。正常な感覚から見れば唾棄すべき考えだろうけれど、個人が勝手にやるだけの薬物だとか、望む誰かへの自殺幇助だとか、客観的に明らかな不幸へと他人を陥れなければ、オレはそれを、一つのあり方だと思っている。決して自己弁護ではない、つもりだ。
「……辞めてもいいんだぜ、岬」
 マスターは鋭い。弾かれて世界の片隅にあるこんな街で、バーと言う場所を統べているくらいだからなのか、耳だけでなく嗅覚まで優れている。
「何をです、マスター」
「とぼけんなよ。お前は罪に抵抗がねえ、あるとすりゃそれは結果にだろ。この異常な地域でも平気で息が吸える癖に、根っこが優し過ぎんだ。はっきり言うが、お前みたいなやつは初めてなんだ。グルナードの話じゃねえ。ここいら一帯で見た事がねえよ。お前くらい、訳の分からねえ方向にイカれた人間はな。……訊くぜ。お前、何の為に生きてる?」
「……。答えに、ならないかも知れません。言い切れる事があるなら、オレは……自分の為には生きてない。だからですよ。マスター、大抵は衝動とか恨みとか金稼ぎとか、犯罪に走りたくて走る人なんか、ほんのわずかなんです。誰もやらない、やりたがらないんじゃなくて、やろうなんて考えもしない。でも、縋らずにはいられない必要な悪があるんだって、この街は教えてくれました。……だからなんですよ、マスター」
「はん、じゃあお前だってそうじゃねえかよ」
「……え、っ?」
「だってよ、お前、進んで『おとなりさん』やってんのか? ……違えだろうが。現に、『岬秋思郎』なんて人間は居ねえ。いいか、偽造なんて商売はヒーローの自己犠牲じゃねえし、同じ『おとなりさん』やってる悪者だって、そん時は同じ様に人を救えんだぜ。誰が『おとなりさん』として控えてたって、依頼の中身も、仕事の中身も変わんねえ、だから訊いてんだよ」
 血が冷えて行く。マスターの問いが詰責じゃなく、慈悲に聞こえてしまったから。
「――お前は、どっちだ?」
 
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 早朝五時に回す洗濯機の設定のそれぞれ、暗い中にあって不気味な複眼みたいな赤い光が悍ましかった。
 一切を学んだ。それはグルナードの、本来の姿。名前の由来を、フランス語の柘榴に取っている。おどろおどろしい粒の集まり。俗説に継がれる人肉の味。きっとパリの事件に着想したのだろう、やや悪趣味で、勤めの内容とは無関係で、分を弁えたネイミングだ。
 しがないバーでオレは、今やカクテイルよりも巧みに、非合法な書類や証明を作ってしまえる。完璧だとは言えなくとも、自分、或いは時に、誰かにとってのお守り。幾つ手のひらから零れ落ちたって構わない、少しでよかった。両手で掬う砂の中に、星の欠片を信じる様な。
 目は慣れて、まだ明けない空に蓋をされた部屋は更にカーテンを重ね着して、電気を点けずにいた。落ち着く、純粋に好きだと分かる。太陽が来るまでは、静かに漆黒を飼っている。
 限られた光源として、朝のニュース番組は随意に流れ続ける。観る理由は二つあった。一つは単に、天気を確認する為。Y県、曇り後晴れ、二〇パーセントから一〇パーセント。外に干せそうだった。耳のないパンを焼き始める。
 そしてもう一つ、何となく報道を追っていた。拘ってはいないし、どちらかと言えば、目の前の天気の方が重要だ。県内で多発する殺人、それが模倣犯でも、繋がりのない件だったとしても、まだ特定の人物が容疑者として挙げられてはいない。特に新たな犠牲者もない。
 ――それ、犯罪なんじゃ? ふと、遠い電話みたいに由希さんの声を思い出す。全て定められた法の厚み、そこには軽重があるだけだ。
 罪に染めたこの両手もどこかで、他人を不幸にした事があるだろうか。オレの信じる星の欠片は、誰かの願いを叶えた後の残滓だろうか。知らずに生きている現在を悪と思えば、多分、早く眠ってしまうべきだった。必ずカーテンに隙間の出来る理由を、朝の片隅には見出しそうな予感がある。
 トースターが鳴った。脱衣所から、まだ汚れを落とし終えた合図はない。
 
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 偶然だった、けれど、何も特別な事ではなかった。この街の区切られた空は狭い。今だけは息苦しさの栓を少し緩めた祝日の真昼、バーの外で琴乃さんと葉月さんに会うのが初めてだった、と言うだけだ。
「あっ、秋思郎さんだ」
「どうも、お出掛けですか」
「あのねぇ、由希の誕生日がもうすぐなんだ。だからプレゼントをね」
 頭のどこかに引っ掛ける程度の感触で覚えてはいた、年齢確認の時にさっと見たのを。だから、琴乃さんと葉月さんの誕生日は知らない。
「それでお二人なんですね」
「本人に選んで貰う、ってのもありなんだけどねー。多分、しなくていいのに変に遠慮するっしょ? 由希って何か割り切らないって言うか、まだちょっとピュアでさ、大人振った子供、みたいなとこあるから」
「まあ、分かりますよ」琴乃さんにも似た節はある、その彼女がそう分析する。「……そう言えば、皆さんはどこで知り合ったんです? 大学とかですか?」
「ううん、全然。あたしは高校卒業して、県外から越して来た。当時の彼氏追っ掛けて、馬鹿だよねぇ、大学行ってないしさ。あ、葉月は今T大の院に居るんだっけ。専攻は……」
「物理学」
「だって。由希も大学は行ってないって聞いた。でもS高なんだよ」
 その名前が出て、世間話のつもりだったものが、少し心を複雑にする。長く男子校だったけれど、六年前から共学になったところだ。ここからはやや遠く県西にある進学校、マスターも出身はそこ、そしてT大だとも言っていた。人って、堕ちちまうよなぁ。大学院に在籍する葉月さんにしても却って異端に映る、暗がりの世界、各々に秘したい事情がある。
「最初は、まずあたしが二人とそれぞれ知り合って、それからいつだったかな、葉月と出会ったバーに、あたしが由希を連れてった。のが切っ掛けで、今」
「そうだったんですか。いいご縁でしたね」
「本当ねー。あ、参考なんだけど、秋思郎さんならどんなものあげる?」
「……さあ、そう言う方面のセンスはありませんからね、私は」
「うーん……あたしはね、金木犀の香りのボディー・クリームをさっき見つけて、もう買ったの。由希の生まれが一〇月七日で、誕生花が金木犀なんだって。調べといたんだけど。でも葉月は、誕生花とか誕生石? あんま思わせ振りなものが買いたくないって言うんだよ」
「そっちの袋は?」葉月さんは既に、小さめの綺麗な紙袋を提げている。
「これは、個人的な買いもの」
「何しに来たのか分かんないよね」
「まあ、それも含めてショッピングってものでしょう。ああ、参考程度でよければ、紅茶のギフト・セットなんていかがですか? 由希さん、紅茶が好きで、お酒は外でしか飲まないって仰っていましたから」
「……あ、いいかも」
「お、じゃ決まりだ。ありがと」
「いえいえ。ではそろそろ、あまりお邪魔してしまってもいけませんし」
「はぁい、またねー。って言っても、あたしは今日お店行くけど」
「お待ちしております」
 二人の横を抜けて、再びバーへ向かう。オレの足音三つを合図に、青いごみ箱の隣で鎮座していた猫が路地へ走って消えた。
 開店準備にはまだまだ早い。依頼があった。取り次ぎ曰く、まだ若く気の弱そうな男の子らしいから、悪用されはしないだろう。実際は分からない。いつも八割以上が願望だったし、ライヴのティケットみたいに、どう好意的に解釈しても目的が何かしらの違反に触れる、確実な件もある。正体を明かさない為に、オレたちは依頼人をじかに拝む事がなく、顔写真つきの証明書でないならずっとそのままだ。
 二面性だろうか。他人に接する仕事の自分と、隔絶された仕事の自分。片方は悪で、もう片方が善かはともかく、悪ではない。或いは、矛盾。どちらも動機なら誰かの為、役に立つ事が初めに来ている、それは汚れていたっていい。ただ、側面で不利益を生んでしまうなら、誰かの為だなんてお題目は通せない。
 普段は施錠された一室、中身を知らずに、綺麗なままで働く店員も居る。オレは預かった鍵がある。全て日常だった。
 作業に取り掛かり、時間が来ればカウンターの中に立つ。琴乃さんは確かに姿を現して、気の休まる様なオーダーと談笑を繰り返した。そんな台本なんだと言われても疑わない、何も変わらない、日常。
 報道によれば、死人が増えたのは同じ頃だった。


→後編(2/2)