火葬(短編・1/2)

 手のひらから零れ落ちた栞が、瞬間、ふわりと片羽を持ち上げて、その後を絨毯へと垂直に降り立つまでの速さに任せ、倒れる。ちょうど、本を畳む時の優しさと似ていた。読書をするのに、栞は表紙と右手の指の腹に挟み込むのが私の癖だった。
 一八時を回れば、私だけの書庫。夕食にはまだ気を引かれなかったし、きっとまた、何も口に入れないまま私は眠ってしまうのだろう。程よい気怠さで栞を拾い上げ、揺り椅子に戻る。心地よい呼吸で物語を進めては、自分が設ける幕間で意識を宙に浮かべた。それは陶酔とも、纏まらない思考を自由に遊ばせるとも言えるし、そして言えないものでもあった。
 四方を囲む、または均整に林立する本棚に対して天井はやや高く、余裕を持った空間と木造のそれぞれが心を落ち着かせてくれる。採光の為の窓が注意深く、所蔵品を傷めない位置に取りつけられ、今は空の赤みを伝えた。
 鍵を厳重にしたら、誰もそれぞれの夜へ閉じこもる。私も勿論そうした、そして限られた時間では、取り分け物語に親しんだ。普段から著作の類を愛してはいるけれど、管理と、その内側へ指を滑り込ませるのとは違う。もう数日もすれば、今やすっかり私の住居を兼ねた〈リズノーの図書室〉も面するこのサントノレ通りでは、軒先に吊られたランタンの群れが暗闇をかすかに彩り始めるだろう。秋の終わり、冬を少しずつ隠し持つ季節。ランタン……いや、火、と言う光が好きだ。蝋燭の先端に宿るその神秘、熱、衝立となるエクラン・ドゥ・リュミエールが和らげて、空間にぼんやりと広がり行く曖昧な明るさ。必要とする頃合いではまだないけれども、敢えてそれを遅くまで灯し続けて、言葉の雲の中に揺蕩う。普遍的な二相睡眠の第一は、私にはないものだった。日が暮れるものなら、月だって暮れるものだろう、その月が暮れそうになる前に、私は一続きの眠りを取った。例え文字を追うのには不向きだとしても、読書は火を伴って、夜にするからこそ耽美になる。
〈リズノーの図書室〉を愛称にしたこの館は、祖父の遺志を継いで、今は私が管理する財産の宝庫だ。規模や、建物自体が大きな訳ではないけれど、貴重な本を数多く蔵し、一部大衆に開放している。貸し出しはせず、入館時には外套や鞄も預かって、営業が終われば扉は固く施錠される、いずれも必定の警戒だった。
 もう一つの仕事があった、それは抗い様もなく時折訪れる運命で、閉館後に人知れず行うものだ。ヒイナ、君は辛い思いをするだろう。脳裏にある祖父の瞳には風も波もなく、真っすぐに私を見詰めて語った。当然だ、それは死と向き合う事に等しいのだから。
「お爺様……」
 気配には感づいていた。奥まった書架の、日を待たずじきに果てそうな拍動の弱さ。止める術はない。もし本当はあるのだとして、今生の内に解き明かされはしない。きっとその先も、誰にも……私にも、きっと。
 ――感傷的な幕間が長過ぎた。再び、私は物語へ泳ぎ出す。
 受け入れるしか、ないのだから。
 
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 それは天性なのか、リズノーの家に芽吹いた命だからなのかは分からない。姉と私は二人して、幼い頃から言葉の輝きに魅了された。読む事と、書く事の違いだっただけ。
 少なくとも、私は詩人にはなれなかった。今も文字を紡いではいる、個人の、範囲で。たまに綴る物語は手慰みで、未完成のまま幾つも捨てた。華美な寝台から少し横へ顔を向ければ、半円窓にラムダ状に掛かるリドーの隙間から、日没が告げられている。ああ、これでまた再び一つの夜だ。飾りの小瓶を幾つか並べた装飾的な机、そこで私の詩は、次の筆が入るのを待っている。
 読む、とはまた別にしても、両親が病に夭折して、姉は〈リズノーの図書室〉の新たな主となった。当時まだ祖父は存命だったけれど、その灯火もやがて尽きた。不思議な話だ、出生に大きな差のない双子とは言え、本来の邸宅や土地を継いだのは次女の私。祖父にとっては図書室こそが代えがたき真の財産であり、姉が就いたのは順当だった。私としても異論はないし、リズノーの末裔が女しか居ない事、祖父は落胆一つせず可愛がってくれていた。
 生活に困窮はせず、私の詩は道楽になってしまっている。例え私にそんなつもりがなく、どれ程の熱量を以て向き合おうとも、事実がそうさせている。二年前から、姉は〈リズノーの図書室〉に私の詩を置いてくれる様になった。新作が出来上がる度、本棚に私の一連の領地はほんの少しずつ増える。当然リズノーの威光は出さず、私は異なる名前を持った。意地と見栄。反響は知れていた、私の現状に至って。
「お姉様……」
 唯一の、精神的な支え。幾つかの大規模で豪奢な人づき合いに身を置くヴィルジニー・リズノーは詩人ではない、例えそんな場で出してみせようとも、それはいよいよ自ら鮮明に道楽の刻印を押してしまう事だ。そして、詩人としての私を、誰にも知られていない。姉だけが、最も心に寄り添える存在。
 それなのに。
 書簡から、たまに会うあなたの言動から、どうか恵まれる筈の光に歪みが生じている。
 何がそうさせたのだろう。姉の背中、影が揺らめき、それはよくない道だ。
 姉は、おかしくなってしまった。
 
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「本日はこれにて。ご機嫌よう、マダム・リズノー」
「ええ、ありがとう」
 書物の管理は、祖父に生前教え込まれた私と、外部に複数抱える職人から為される。閉館は一六時。その後に一時間の業務をこなし、彼たちは日の役目を終える。利用された本や修繕から戻った本の配架、或いは傷みや汚れの確認。技術では及ばない分、管理者として、事務的な指揮は全て私が取る。目録の照会、開放していない裏側に並ぶものの中から、表へと展示する選定。自分の目を通して、入念に一つ一つこなす。
「……あなたたちも、今日は帰っていいわ」
「主様、よろしいのですか?」
「大丈夫よ、よくやってくれているもの。それに……今日は、『祈りの日』だから」
 こう言えば使用人たちは意を汲んで、何も疑わずに帰り支度をする。邪魔になってはいけない。「祈りの日」、その措辞が与える、一人で行うべき、特別な時間のイマージュ。
「承知しました。本宅の皆にも伝えます」
 常につきっ切りにはしていない、定時になれば各々の家庭や、私が与えた共同住宅に帰って行く。普段は今より更に一時間、館内の清掃などに当たり、それもまた重要な業務だ、けれど見る限り行き届いていたし、私には、事を急ぐ必要があった。
 彼たちの背を見送り、やがて隠し事の様な静寂が訪れる。閉館後の段階で、あの一冊は裏側に運んであった。関係者だけの通路を抜けて、扉の奥へ。〈図書室〉として知られていない空間に並ぶ装飾的な背表紙や、単に綴じられただけの未熟な本の海原に囲まれて、私はそれを、机の上に横たえていた。
 鼓膜に沈み込む様な深さのところでぱちんと弾けた感触は、午下を回った頃だった。何度目だろう、幼少のみぎりを数えても、少なくはない経験をして来た。
「ねえ、お爺様」
 過去の私、初めての私に、上手く伝えられる術はなかった。
「あそこの本、何だか……寂しくなっちゃったの」
 祖父は目を丸くして驚き、それが一呼吸の間に治まると、優しく語り掛けた。
「ヒイナ、私の血を継ぐ者よ。信じていたのだ。君のお父さんとお母さんには、分からなかった事だ。恐らく君も、まだ充分に理解は出来ないだろう。いいかい、よく聞くのだよ」
「うん、……?」
「本にはな――我々と同様、命がある。生きているのだ。いや、宿ると言うべきか。全てにではない、或いは何も気配の感じられぬ本は、我々の目や手が触れるより先に、もうとっくに尽きているのかも知れない。ただ間違いなく、生きている本がある」
「じゃあ、あれは……」
「その通りだ。たった今、死んでしまった。それが分かる我々にとっては悲しくも思える事だが、本当は、悲しむべき事ではない。ただ己の命を全うし、安らかに終わった。運命なのだ。そして〈リズノーの図書室〉と呼ばれるこの場所が担うもう一つの役目こそ、その末期、安らかな眠りに、最も相応しい環境を整える事なのだよ」
 祖父亡き図書室。「管理」とは、また異なる大きな意味を併せていた。遠く遠くに暮らす両親、双子として生まれた妹にも能わず、私だけが扱える、魂と別れた器の行き先。……準備に取り掛かろう、誇りが汚されない為に。
 栞に手書きでの悼詞を綴り、見返しの喉に挟んだら、柔らかな白布で本の下半分を包み、最後に余る角を内側へと折り込んで止める。祖父の示した作法、穏やかな姿になる。それが済み次第、最後の祈りが始まる。
 前門に正面から通ずる個人書庫・〈リズノーの図書室〉と、その奥で佇む、仮に本宅としている住居部分は同じ敷地にある。二つの建物の中間は、妹が暮らすリズノー邸の様な優れた庭ではないけれど、使用人たちが手入れする幾つかの花壇や、憩いの為の長腰掛けがあり、またいずれの建築も美しいから、遊覧は自由だ。ただ、〈図書室〉や周りの鑑賞が目的の一般的な客人たちは、これでも現在使われている私個人の家であるから、必要以上に本宅へ近づく事を許可しない。使用人の目が常に注意している。そうでない本宅への来賓なら、やはり屋敷の脇へ意識が向く事はまずない。
 焼却炉、その目的はただ一つだった。塀は高く、表裏どちらの門の隙間からでも見えない位置にあって、天寿に導かれた書物たちの密かな火葬場。普通には、焚書と言う或る種の悍ましい行為に映ってしまう、客観的になるまでもなく、それは把捉している。だからこそ秘して行うのだし、私だって、痛ましく思うのだから。
 ――ヒイナ、君は辛い思いをするだろう。
 愛称のつく程、希代のコレクシオンを成した祖父だ。その傍らで本を燃やさなければならない責務は、いかばかり彼を苛んだだろう。今は私が背負う、重荷。誰にも理解されず、生物とは違い、死後もあるがままの形を残すのだから尚更だった。けれど私は、末期を尊び遂行すべき義務まで含めて、祖父の全てを以て〈リズノーの図書室〉の管理者足り得るのだ。存在を違えども、人類と共にある生命の権利としての葬儀だった。
 いつもそう、この瞬間ばかりは、火と言う光を必ずしも愛せない。どれ程に神聖で、また絶対的な任だとしても。炉はやがて爆ぜるまでに燃え、そして私は、供える様に亡骸を差し出した。後を灰となるまで、何時間だって祈った。
「……主様」
 私は幻聴とさえ思った。だって、その最中、一切の声は常にない筈だった。私が悪夢の寝覚めみたいに顔を上げると、まぎれもなく、幼い使用人の姿が目に飛び込んだ。
「書を、燃やしておいでなのですね」
 
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「ヴィルジニー様、明日からは姉君のところへ?」
「ええ、二日か、三日程ね。滞在はまだはっきりと決めていないわ、それでも長くはならないでしょう。その間も、仕事は怠らない様に」
「承知致しておりますとも」
 そろそろ正餐の時間でございます。気の乗らない予告だったけれど、重い腰を上げて広間へと向かった。純白な皿に、供された料理は誉れの様に麗しく整っていた、使用人たちはいつもの通り、段取りよく給仕を務めていた。しかし私の舌は、意識は、まるで味を覚えなかった。
 ヴィルジニー・リズノー。血を分けたあなたと二人頂いた内の一つ、それはとてもとても素晴らしい名前の筈だ。私にはそうでない、悲しき虚勢の名前もあるけれど、どちらも運命を抱えた私で確かな事だった。
 一週間前。姉の書簡は、見も知らぬ名前で私を呼んだ。
「お加減がよろしくありませんか、ヴィルジニー様」
「……平気よ。明日も予定通りに発つわ」
「どうか、ご無理はなさりません様に」
 親愛なるサアラ。美しい字の体裁で、優しい筆致で、受け取るべき私を無視し、存在しない誰かに語り掛ける怖ろしさ。届け先の手違いを思った。幾度も読み返しては、絶望を深めた。何より末尾には「ヒイナ・リズノー」とある、手違いなどでは最早ごまかせず、いよいよ決定的だった。何を原因にすればこの悲劇的なセナリオが地上に作り上げられるのものなのか、姉の異質な変貌は刻一刻と進行している。
 返信が間に合っていれば、姉も私の伺候を知った筈だ。ただ、旧来の友人よろしく、連絡をしないで訪ねる事はままあった。それでもいつも、可憐な花より生まれたのだと疑わせぬ笑みで私を迎えては、弦楽にも劣らぬ綺麗な声で、ヴィルジニー、私の本当の名前を愛しく呼んでくれた。
 明日。距離が曖昧にしていた運命は、定まるだろう。
 どうか、壊れないでいて。私のアンナお姉様。
 
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 春の初めに仕える事となった、ユエム、最年少の使用人。どこかの上流階級の男とその妾の間に生まれた子供で、今は天涯孤独と聞く。懐妊を理由に捨てられた母と慎ましく暮らしていたのだけれど、彼女が一三歳になってからの或る日、母を突然に失う。暴漢によって、理不尽に。男の謀殺にしては遅過ぎるから、それとはまた質の異なる悪趣味な凶行だったのだろう。彼女だけが魔の手を逃れ、私の下で、私が用心深く新たに与えた名前で、こうしてやっと生命の糸を紡ぎ直している。
「……そう。見てしまったのね」
「理由がおありなのでしょう?」
 庭掃除や買い出しなどの雑務ばかりでまだ多くを任せておらず、経験こそ浅いけれど、泰然として賢明な子だ。或いは幼さゆえ、なのだろうか。いずれにしても、〈図書館〉や私を求める客人たち、この現場を目撃したのがユエムでない者だったなら、例え他の使用人でも真っ先に非難の指を差すに違いなかった。
「あるわ、勿論。したくてしているのではないし、疚しい後ろがあるのでもない。ただ、あなたを見くびる訳ではないけれど、言っても仕方のない理由、なの」
「――『感染』を防ぐ為、ですか?」
 私に、その驚愕は隠せなかった。「ユエム、どうしてそれを……!」
「存じております、分かるのです。本の魂が。母に教わり、その力は私にもうっすらと宿っておりました。……病原になってしまうのですよね、本が『腐る』事によって。そうなれば、物語は器から現実へとめどなくあふれ出して、感染すれば、そこにあった筋道が人を支配する。現実と物語、記憶と妄想が混在した状態になって、認識も出来ないまま、自分と登場人物の演者を同時に始めてしまいます。……だから主様はその前に、葬るのですね」
 肌寒さが増した一〇月の庭、私と通じ合う人の居る聖域の片隅。ユエムは私が知るのと同じ真実を語った。焼却炉の、半分開いた口の奥底で浄火はまだ揺れる。彼女はその前まで歩み寄ると、手をかざしてみせた。別れをしたのだ、そう感じた。
「ええ、あなたの言う通りよ、ユエム。……本当に分かっているのね。それに気づいて、あなたは戻って来たの?」
「……はっきりと魂を感じ取る事こそ出来ますが、私の力は未熟で、弱いのです。同じ室内くらいの近くに居て、初めて分かります。私は表も裏も、〈図書室〉に詳しくありませんから。それに、決まって煙の上がる『祈りの日』。確かめたくはありました、多くの書に囲まれて、主様が魂や感染をご存知なのか。でも、戻った理由は違います。私はただ、これを」
 腰に提げた袋から、細い指でユエムは白封筒を取り出す。
「妹君からのお手紙です。出たところで配達夫から預かりまして。閉館時間も、普段なら、私共がまだお仕えしているのもご存知でしたから。お手元に直接お届けした方が早いと思って、私に頼んだのでしょう」
 ありがとう、一言添えて彼女から受け取る――わずかに躊躇いながら。直前のやり取りで、私は妹を試している。これは恐らく、答えが明らかにされたものだから。
「では、私はこれで。主様がご存知で、安堵致しました」
「……火葬の事は内密にね、ユエム」
「心得ておりますとも」
 ユエムの小さな姿は、外側から後門の錠を掛けて庭より去り、再び一人になる。火の番と言う程ではないにせよ、務めの途中、この場を離れる事も返信の確認を先延ばしにする事も出来ず、夕焼けの中で手紙を開く。
 危惧していた。前触れがなかった。本文を読み飛ばし、私は最後の名前から目を通す。背けたくなる現実、そこに、サアラを侵蝕する奇禍ははっきりと刻まれていた。
 
 ――輝かしきあなたと心を共にする、ヴィルジニー・リズノーより
 
 本の拍動を感じる私でさえ疑念は抱いていた。けれどもう、これ以上はない。私の危惧は間に合ってすらいなかった。愛情を以て並ぶ彼女の大半の言葉を辿るまでもなく、感染の証は表されている。残酷に、精彩に。
 初めて直面する実例。事象が起きた後の対処法までは教わらなかった、きっと祖父も知らなかったからだ。ヴィルジニー、覚えがある。祖父が読み聞かせた数多くの作品の中に、双子ではない、アンナとヴィルジニーの姉妹が登場した様に思う。色褪せて漠然とした記憶だ。問題の一冊は今、リズノー邸、妹の部屋にでもあるのだろうか。もしくは妹が、それとは別に個人で書き始めた物語に、いつか魂が宿っていた可能性も考えられる。もどかしかった。私に手の打ち様はなく、一縷の希望があるとするならそれはユエムだ。彼女が何か解決の糸口を有している事、縋るしかなかった。
 改めて、手紙の内容をなぞる。次の休館日、ご機嫌伺いに行くつもりです。追伸は告げた。記憶と妄想の混濁したヴィルジニーなる人格にどう接していいのか、戸惑いばかりが強い。
 明日までに、覚悟を決めなければ。
 天秤の傾きが、空に月を持ち上げつつあった。
 
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 凡そ一時間の旅程。リズノー邸と〈図書室〉は、そう遠きに隔てられている訳ではない。これでも随分ゆっくりとしたつもりだ。午餐を済ませてより邸宅を後にし、不安やら憂慮を一旦は臓腑にしまい終えた、ちょうどいい頃合いに到着した。
 比べれば、後門から敷地を踏む者は少ない。況してや休館日ともあれば、迎えの姿勢は万全だった。訝しく思うとすれば、部屋までの案内を子供の使用人が務めた事くらいだ。自分で言うものではないけれど、来賓の相手をするには適格ではない。以前までは直接出向くか、そうでなくとも老練の男だった。気の知れた妹をあてがい、若輩に経験を積ませようとする心でもあるのだろうか。姉の本意は、捉えかねた。
 石畳は真っすぐに、その正面で秋の色をした花壇の連なりが、左右対称の静かで麗しい館を台なしにせぬ様な配慮で彩っている。
 よく躾けられている、使用人の少女に無礼はなかった。恭しく扉が開かれた、姉の自室は二階だった。けれど何か憎らしくなって、ここまででいいわ、私の方こそ礼儀知らずに振舞ってみせる。少し呆けた間を取ってから、彼女は承知の印に頭を下げた。
 正面から、翼のごとくなだらかな曲線で階段は両側に設えられ、その片方へ踏み出す。二階は、上面図で見れば古めかしい鍵の形の様である、吹き抜けになる背中側の真四角な回廊と、反対へ直進に続くクロワール。行き当たった一番奥が、主の部屋だ。応接間や広間の類は階下にあって、私的な空間に絨毯は敷かれない。お爺様の意向だった。木の床に靴音を鳴らしながら、辿り着いた先で入室を知らせる。返事があった。手ずから扉を押す、そして、椅子に腰掛ける姉を認めた。鼓動が少し跳ねた。
「……お久しゅう、お姉様。こうしてお会いするのは、一箇月振りですわね」
「あら、使用人の子が居なかった?」
「ごめんなさい、玄関で下げさせたわ。私とお姉様の、大事な時間ですもの」
 純粋で無難な挨拶、私は試しに来たのだ。様子見、言葉を探していると、やはり口を早くに開いたのは姉の方だった。
「この三日に起きた事を、まず伝えておくべきね。トゥール兄弟を知っている?」
「ええ、勿論よ。宮廷の私的随行員と言う栄誉を与えられた祖先の血筋で、現代に尚も才を継承する詩人であり画家、憧れるのも不敬なくらいの方々。どうしたの?」
「お兄さんが、『ドミニック・スーシェ』の詩を気に入ってくれたのよ」
「ご冗談、でしょう? あり得ませんわ。だって、そんなまさか、」
「こんな冗談を言うと思って?」
「……信じられません。今の今まで、誰にも見向きもされず、そもそも出版にだって至っておりませんのよ? ここに置いて頂いているだけで、それが……」
 ただ偶然に陽を浴びただけの事、とは、到底思えない。姉だ。姉が何かしらの尽力をしてくれたのに違いなかった。変わりない、姉にある慈愛の根源は怪しき病魔にも侵されず保たれている。だからこそ。
「あなたの成功は、もうすぐそこまで来ているわ。書きなさい……ヴィルジニー」
 だからこそ、悲しいのだ。迷いのある声。いつも愛しく心地よく響く名前に、あなたの震えを感じ取ってしまうのが。
「……ねえ、お姉様」
「何、かしら」
「もう一度、呼んで下さいませ。私の、名前を」
「……あなたはリズノーの誇りよ、ヴィルジニー」
 明確な亀裂だった。
 例えその身体を同じくしようとも、素晴らしき人格がとどまっていようとも。
 もう、姉ではなくなってしまった。
「どうして……どうしてよお姉様! あなたは誰なの、繕わないで! 覚えておいでですか、確かに私を『サアラ』と呼んだあの文を、綴られた言葉のおかしさを……あなたに何がありましたの、何を致しましたのよ、お姉様……っ、!」
 幼時よりずっと親しみ、慕い続けて、生き方を違えどもリズノーと言う名前を二人で守って来て今更、他人の様に考える事など出来ない。〈図書室〉は後世まで残るだろう、主を変え、形を変えたって、誰にも成せない一財だ。あなたは正統な担い手として、絶対の仕事をこなしている。そして私も漸く、それもあなたの手助けがあってこその、歴史に刻まれるかも知れない好機を目前にした。その際にはきっとドミニックを捨て、家名を轟かせてみせよう。
「落ち着きなさい、ちゃんと話をしましょう」
「出来ません! 私のお姉様として目の前に居ない限り、あなたに話し相手の資格などありませんわ!」
 アンナとヴィルジニー、最後まで私たちはリズノー姉妹でなくてはならない。最後にはリズノー姉妹として、世界に語り継がれるべきなのだ。
 どうか自分を取り返してよ、お姉様。
「待って、どこへ行くの!」
 駆け出していた。感情の迸りがそうさせた。お姉様を正気にさせる筈の私の役目に、気づけば心身は逆らってしまっていた。
 一切の時間が退行する様に、それは何も得なかった事の表れとして、私の歩んだ過程は飛ぶ程の速さで巻き戻される。クロワールを突っ切り、階段を下って玄関へ。少女はまだそこに控えていた。疎ましいと思う間もなく横を抜けた。庭、門扉、路地。私の両足はそのまま近くの宿まで届いた。
 気が緩んだ途端、孤独になった途端、冷たい客室で泣き腫らした。いつもなら本宅に泊まるところを、今日が許さなかった。無理をしている。ヴィルジニーの名を仕方なく呼ばれた屈辱は、誰にも計り知れない。
 蝕まれたあの人間にとって、私はサアラなのだ。
 あなたはどこへ――どこへ消えてしまったの。


 →後編(2/2)