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生きて、いたくても――Oct#10

「当たったんだよね。図録」
 個人的な内容だけどさ、と前置きして、偶見は今回の「未来視」を話し出した。
 体育の日を含めた連休が明けた火曜日。彼女は事件に触れなかった。故意に避けている様にも見えて、きっともう、その話題は出したくないのだろうと思った。
「図録?」
「うん。美術館の所蔵作品一覧、的なカタログなんだけど、それが非売品でさ。毎月アンケートに答えた人の中から、抽選で貰える、って感じで」
 変わった方式だ。所蔵品一覧や企画展・特別展用に作られる一般的な図録と言えば、それぞれのミュージアム・ショップで普通に販売されている。と言うか、意外な趣味だ。少し、気持ちに火が着き始める。
「発送を以て代えさせて頂きます、みたいなのってさー、来るまで分かんないじゃん。忘れた頃に来たりとか。それが来たんだよね、明後日」妙な言い方だ。偶見でしか成立しない、未来に対して過去形を使う表現。
「だから今回はあれだよね、『予言します。図録来ます』なんて言って明後日持って来ても、持ってたんだろ作り話すんなって言われたら否定出来ないんだよね」
「いや、別にもう、それは疑ってないから」それより、僕は抑え切れずに訊いた。「誰か、好きなアーティストが居るの?」
「えっとね、ミュシャって知ってる? アルフォンス・ミュシャ」
「ああ、うん、知ってるよ。ミュシャだと、『ハーモニー』が好きかな」
「……やるなお主。そこですぐに好きな作品が言えるとは。って言うか、ミュシャって聞いて最初に『ハーモニー』は中々挙がらないよ」
 そんなものだろうか。あれは大作だし、有名そうだけれど。
 前情報なしに色々と作品を見る所為で、逆に代表作が分からなくなる事が僕には多い。世間の評判や知名度より自分の価値観が先に立ってしまうと、どうしてもズレが生じてしまう。代表作に挙げられなくとも佳品はある。「ハーモニー」は壮大で神秘的な雰囲気が個人的にはかなり気に入っているけれど、やっぱり「ジスモンダ」とか、いかにもアール・ヌーヴォーらしい作品の方が人気なのだろうか。
「……もしかして、宮下君って美術好きなの?」
「そう、だね。趣味だから、深い事までは」
 そう、芸術鑑賞は、僕にとって数少ない、そして最も長く最も熱を上げている趣味だった。
 あの「砂に埋もれる犬」の夢を見た中学二年生の時には始まっていた趣味だけれど、本格的なものでもなかった。図書館や学校の本を見たり、インターネットなんかで色んな画像を探しては眺めていたに過ぎない。ゴヤは有名だし、「我が子を食らうサトゥルヌス」も有名だ。それが「黒い絵」の代表作だから、同じシリーズのあの絵まで辿り着くのは難しくない。最初はその程度、興味があったと言うだけだ。
 そこに期せずして、気になっていた画家の個展の宣伝を発見し、父に話をすると、休日に美術館へと連れて行ってくれた。実際に足を運んでみると――まるで世界が変わった。画面の色味、絵具の盛り上がりや質感、迫り来る様な空気、実在感……液晶に解釈された絵と肉眼で見る本物が、こんなにも相違するなんて思いもしなかった。展覧会で見た絵を後で検索しても、表示される画像には感動があまりにも薄くて、自宅に呼び出せるインスタントな絵ではもう満足出来なくなっていた。それからすっかり虜になって、専門的な美術関連の書籍を読み始めたり、金銭的な余裕がある時には、積極的に美術館へ通っている。興味の幅も拡大して、今では絵画以外の世界も獲得した。
「好きな人居る? 誰が好き?」
「……うーん、デュシャン、とか」
「ほほう。デュシャン。……それは作品が好きなの?人物が好きなの?」
 彼女の問い掛けは的確だった。例えばミュシャならそのデザイン性や華やかさから、美術に詳しくない層にも人気や名声はあるし、女性からならばそれも根強い。ただ、今の質問に関しては少なくともデュシャンの作家性を知らなければ投げ掛けられないものだ。デュシャンも高名な芸術家だけれど、実際に美術と言うジャンルは好きなのだろう。思わぬ共通点だ。
「あの作品群は人物性が生み出したものだし、人物が好きなんだと思う」
「成る程ねー。あ、自分で描いたり、作ったりは?」
「いや、流石にそこまでは」
「そっかぁ、美術部とかでも見掛けた事ないもんね」
「え?」驚いて、言葉が一瞬詰まる。「偶見、美術部なの?」
「あ、違う違う。あたしの友達が美術部で、よく遊びに行くんだよね。あたしは、知り合いの部活にちょっかい掛け部だから」迷惑そうな部活だった。廃部になった方がいいと思う。
「だけどね、凄いんだよ、その子。去年サムホール・トリエンナーレって言う公募展で入選して、美術館に作品が飾られたの」
「本当に? へえ……凄いんだね」
 話を聞いてみると、豪壮な名前の印象に反して国内の地方公募展だったけれど、その名前に違わず正式なものであり、プロ・アマ、性別や年齢(が一定基準を超えていれば)問わず、誰でも応募可能なもので、応募総数にして約一〇〇〇人、二〇〇〇点近い作品の中から選ばれた入賞・入選二〇〇点程の中に含まれたのだと言う。凡そ一割だ。
「でね、今も来月審査の高校生アート・コンクールって言うのに絵画部門で出品する予定で、ちょうど仕上げの段階なんだって」
「精力的だし、実績もある訳だ」
「でしょ? どう、興味ない?あ、今日見に行こうよ、あたしと。見物部として」巻き添えだ。興味はあるけれど、あまりその部員に数えられたくない。
「……いいの?それ」
「大丈夫だよ、あたしみかちゃんには可愛がられてるし。あ、その友達の事ね。みかちゃん。部の皆とも仲いいもん」
「まあ、邪魔にならないなら」
「じゃあ決定ね。放課後また、屋上でいいよね」
 簡単に決まってしまったけれど、幾許かの躊躇いはあった。美術部に行く事じゃない。彼女と二人だけの関係で完結していたこの場所を出る事に、だ。でも、この場所だけで完結していた二人の関係を超えてみたいって気持ちも混在していた。
 どんなに悩んで選択した未来だって、尊大にも「未来図」とか言う概念の脚本通りなのだろう。僕は洗練され切った安全圏に居て、今以上に何かを求める必要性が感じられない。
 それでも新たな未来を目指す為に、理想の舵取りを裏切ろうと決めた。


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