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生きて、いたくても――Sep#7

 我ながら情けないのだけれど、よかれ悪かれ僕の人生は、主体も主張もない僕が主役とは言いがたくて、そして主役の居ないと言う部分だけが滑稽な、退屈を極めた喜劇だ。自分で舟を漕がない、流れに任せただけの航路。現下、なる様にはなっているし、僕もそれに合わせて舵を取るくらいはして来た。故に、見られて困る様な事はあまりないと思う。逆に平坦だからこ
そ、悪目立ちする記憶が掘り返される可能性もあったけれど。
 小学校時代、中学校時代と、僕の海図には殆ど何の発見も書き込まれていない。それ以前の幼時に至っては、古くなって繊維が劣化した紙が枯れ葉の様に崩れてしまうのと同じで、情報の多くは微塵になって失われている。だから、「過去視」があくまで人の経験ではなく記憶を
探すとするなら、それはかなり限られる。
 自分と言う存在は、確実に居たけれど、居なくても成立する程の役を与えられた小説の登場人物だと思っている。他人から見ても、また自分自身にとっても。
 誰でもいい。例えば一〇〇の小説を読んだ誰かの記憶に問い合わせた時、今まで出会って来た筈の、僕によく似た一〇〇の登場人物は、きっとその人に、もう忘れられている。
 そして、確実に居たけれど、居なくても成立する程の役を与えられた僕たちは、再び紐解かれるのをじっと待っている。物語の中なんかじゃない。誰かの記憶の中、どこか知らない海底の様な場所で――静かに、目を閉じて。

 ――偶見が目を開く。文字通りの事実だけではなく、表現として、瞠然とした顔を伴って。
 その日も、雲の天幕が用意されていた。光は分厚いフィルターを通って、普段あれだけ直線的なのに、今は漠然として正体がない。その真ん中に立つ偶見は言い様もなく世紀末的で、内容が「過去視」であれ、その姿はよっぽど予言者みたいに見えた。
「……。吃驚しちゃった。凄くない?」
「何が、見えたの?」
 僕にだって、心の準備期間はあった。だけど、それでも僕は受け止め切れなかった。本当の本当に、あの日の事は、関係のない他人が知っている訳がなかったから。
「えっと、ね。……宮下君が中学生の時かな。台風の日」
 そう、
「川で、小六の女の子が溺れてて」
 それは、
「それを、自らの命も顧みず」
 偶然で片づけられない、
「川に飛び込んで、助けた事がある」
 真実だ。
「……合ってるよね? いや、普通に考えて危ないけどさ。でも……凄いよ、宮下君」
 僕が、
 あの時の僕が、紐解かれる。
 それは大した起伏もない喜劇の中で有数の、大きな出来事だった。


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