夏のスリップ(短編・1/2)
八月二九日・後編
「月は今日も綺麗ですね、先輩っ」
「……それ、『球』の話?」
「んもう、少しはロマンティックな方に解釈して下さいよぉ」
手向けの様な駅舎だった。この街と、退廃的なローカルの電車は、初めから絵柄のめちゃくちゃなスライド・パズルだ。私たちと一緒に夏の終わりを乗せては、また別の夏の終わりへと運ぶ。ずっと未完成で、殊に私とつぐはの最寄り駅であるここは、パズルの中でも埋まる事のない、右下で取り残された空白の部分。時折、仮初めの何かが止まり、去って行く。高校の制服がわざとらしいと感じる事が、私にはある。
私たちの門限は、バスの最終時刻に委ねられていた。西浜回り、二〇時二四分。つぐはの最終はそれより六分早い。ここは田舎なんだな、と思う。ただそう思う。
「あ、月が綺麗と言えば先輩、好きな人居ないんですか?」
「恋愛? ……居ないかな。つぐはが一番好き」
「えぇー? えへへ、照れちゃうなぁ。でもやめといた方がいいですよ、つぐは猿なんで」
「ロマンティックな猿なんだ」
「そうですよ。愛の分かる、猿の中では美人な方の猿です」
「そんな事ない」彼女を見ればいつだって彼女と目が合う事、私には神秘に思えている。「つぐはは綺麗だよ」
「うわぁ。恋愛しないの、絶対勿体ないですね、先輩は」
あっ、来た。定刻より少し遅れて、それでももう、時間の働きはつぐはの為のバスを呼び込んでいた。その軸の正しい連続性。無限は存在しても、永遠がどこにもない。それはもう知っていて、諦めていた事だった。
「それじゃ、先輩」
「うん、お疲れ」
彼女の鞄で揺れるマスコットから、寂しさは私の方へ転がった。罪も科もない筈なのに、扉は閉まる。静かな夜に爪を立てる、苦しい音だ。追い掛けなければいけなかった様な、小さな背中。さよならの苦手な私だった。
やがて私の番になって、駅舎を後にする。ロータリーを左折すれば、途端に真っすぐな長い道になる事。八の停留所を次々に数えた。一昨年廃校になった小学校前のバス停は、汚れた窓を拭いたみたいに名前が変わった。
潰れた個人商店の建つところで降りる。店舗の入り口と向かい合う自動販売機は生き永らえて、その光は刹那の間だけ私の視力を歪めた。
信号のない横断歩道を渡った。
入浴を済ませるとつぐはからメッセイジを受信していて、双六みたいにやり取りを続けた。平穏の手触りだった。柔らかさ。力を加えたら千切れてしまう、弱さ。
〈先輩 どうしよう〉。だからそれは、不意で、相応しくない言葉だった。〈円が、重なる〉
〈どうしたのつぐは 何言ってるの〉
〈分かっちゃったんです もうすぐそこまで来てる〉
〈ちょっと 落ち着いて〉
〈ねえ、先輩〉
彼女は急いでいた、私の声を聞かないで、伝えるべき事だけを正しく伝える為に。
〈つぐはの事、見つけてくれますか?〉
――最後だった。以降、彼女からの連絡は一切途絶えた。
そしてつぐはは、世界から消えた。
八月二九日・前編
「んー、屋台のかき氷もいいですね、先輩。風情と言うか、変わらない美味しさと言うか」
つぐはと一緒に人気の専門店へ寄ったのは、ちょうど先週だった。午前は水族館に、午後はプラネタリウムに。銀河鉄道の夜をモティーフにした四五分のプログラムが終わった後、フィボナッチ数の無限和とか、互いに知る限りの最も可愛いフリー・フォントが何かとか、整然と散らかった話をしながら二人並んだ。私たちらしい私たちだったから、それは記憶で必然的に愛おしく育つ。
「今度はうちと行こね。ひむろ路、裏メニューあるんよ。知っとう?」
「本当ですか、えー、めっちゃ気になる。行きましょうまつる先輩」
「そしたらまた、予定教えてね。ほら、つぐはちゃんもカードもろたやろ? スタンプの」
「あっあれですか!? つぐは捨てちゃいました……」
「ええよ、うちので頼んだるさかいな」
あれはまつる先輩から教わった店だった。ここだってそう、私たちの知らなかった、まつる先輩が暮らす地元の祭り。多目的グラウンド一杯に屋台が設えられ、中央には大太鼓を戴く櫓が聳える。一七時から始まり、比較的私とつぐはの住む地域からも近い。長く滞在していられるし、終盤も終盤のこの時期には珍しいから、私たちの夏を閉じるのには最高だった。
同じ部活動のメンバーとして繋がり合った三人だった。その枠もすっかり延長し切って、プライヴェイトもよく共にする。友達と呼べる事、その温度。サイダーを一口飲んだ。瓶を下げた時、録音のお囃子が音を揺らした気がした。伝わったみたいに。もう鈴虫の声の混ざる季節に、涼やかで小さな容器の中で、本当は閉じ込められていない波だった。
「先輩たちって、お祭りはよく行くんですか?」
「私は、あんまり。だからって、別に嫌いって訳ではないよ」
「そやねぇ、うちも、お祭り自体は好きなんやけど、一人言うんも寂しゅうてね。誰かと予定合うたら、かなぁ」
「そうですかぁ……つぐはは逆によく行くんですけど」彼女の、短めにした髪が揺れる。一度でいい、撫でてみたかった。きっと彼女は許してくれるだろうから、そうではない、もっと自然な時に。「今日は本当によかったです、この三人で来られて」
つぐはがヨーヨー釣りをしたがって、全員でそれぞれに挑んだ。まつる先輩だけが成功者になり、銀河みたいな色のヨーヨーはそのままつぐはに贈られる。球体ですね、そう言ってつぐはは喜んだ。その間に、夏を忘れなかった夜が、かき氷を緑の水にしていた。つぐははけらけら笑って、律儀に飲み干す。命が輝いていた。
「あ、あまね先輩。そろそろ出た方がいいかもです」
私が進んで確認したくない事だった。そう言うところには、きちっと線を引くつぐはだ。応える、渋々と。「そうだね、名残惜しいけど」
「もうそんな時間なんやなぁ。……ほな、気ぃつけてね」
「はーい。まつる先輩、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ」
にこやかな別れ、先輩は上手だ。つぐはと連れ立って、帰途を歩いた。乗り場を間違えると少しだけ面倒な、各方面のプラットフォームが連絡しない、分離した駅に着く。こちら側の改札に、駅員さんの窓口はない。呼び出しボタンがあるだけの、身の丈を知った駅だった。
「いやー、つぐはは大満足です。楽しかったぁ。先輩はどうですか? 楽しめました?」
「うん、勿論」
「ならおっけーですねっ。……あー、夏休みももうすぐ終わりかぁ……」
「憂鬱?」
「そうじゃないんですよ、またクラスの皆とも会えるし、文化祭とかもあるし、そうじゃないんですけどぉ……『寂寥』、ってやつですかね」
「分かるよ、私もそう」
「えー意外、先輩も感傷的になるんですね。……んー、でもやっぱ」
寂寥、なんて言っておいて、つぐははそれを内側にくるんでしまう。鼻歌みたいに、明るくした言葉で話す。
「この夏をもうちょっとだけでも長く、一緒に過ごしたかったなぁって」
つぐはのふっと消えた世界で、あのヨーヨーはどうなったのだろう。もう戻らない、時計の針は止まらない。
私だって、まだ一緒に居たいんだよ。
必ず、見つけてみせるから。
待っていて、つぐは。
七月一八日・共編
「あまねせんぱぁーい!」
窓から風が吹き込む時、聞こえる筈のない海鳴りが、頭の奥でざらざらと動く気がする。それは私がぼんやりと見ていたホワイトボードの所為だとも思う。眩しさの片隅で、つぐはが何日も前に残した落描きの西瓜を、誰も消さずにいた。一玉と一切れの、物理的に考えてみれば実は不思議な組み合わせが、どこかで海を示唆している。
少しずつ熱量を増している、夏休みを間近にした部室だった。まつる先輩と共に姿を見せたつぐはは、開いた扉の先で私を目に留めるなり、騒々しく呼んだ。「つぐは、大発見をしたかも知れません!」
その名の通り探究心や知的好奇心に基づいて、ジャンルを問わず好き好きに知見・知識を集めては、紹介から考察までをし合う事、それが探究部の活動だった。メンバーはこの三人が全て。まつる先輩曰く、年々人数は漸減しているらしいのだけれど、文化的であるからか、存続は現状認められている。一年のつぐはが新入部員として参加したのも、きっと幸運だ。
「それで、大発見って?」
私とまつる先輩が席に着くと、弾ける様につぐはは書き殴った。〈四次元ポケットの秘密を解き明かす!〉。
「素晴らしい仮説を思いついたんですよ、つぐは」
四次元ポケット。物理学とか、量子力学の話だろうか。ちょっと前にはザウリ・ダンスやエスワティニの民族ダンスを挙げて、舞踊に於ける足の役割や表現について語った彼女だ。旅が速い。
「さて、まずは次元についてですけど、つぐはたちの生きてる世界は、四次元だと言われてますよね」
「幅、高さ、奥行き、時間やね?」
「そうですそうです」まつる先輩の回答に、満足そうな相槌をする。「でも、時間は『空間』とは違うんですよ。時間って概念を一つの次元の軸として考える事は出来ても、足したところで『四次元時空』になるだけで、『四次元空間』はにならないんです。結局、ここは空間的に三次元なんですね」
改めて、と前置きして暫く、つぐはは基礎を補足した。幅も高さも奥行きもない、単に或る一点の位置を示すのが〇次元、点であり、点を無限に内包するのが線、一次元の幅。線を無限に内包すれば面、高さと言う二次元が生まれ、それを奥行きの軸で無限に内包したものが、立体として三次元になる。今ある、この世界。確認を終えると、つぐはが先へ続ける。
「って事は、四次元の中には、三次元が無限にあるんです。だからドラえもんの四次元ポケットは、三次元の物体が無限に入れられるって訳です」
「……それが、大発見? 結構、言われてると思うけど」
「ノン。あまね先輩、ここからが本番なんじゃないですか」
つぐはがホワイトボードに描き足したのは、点、直線、四角形、六面体。それまで説明した次元の、簡明な図示。
「次元ってよく、こうやって表現されますよね。――でも実は、これが違うんですよ」
「へえ……面白そう、聞かせて」
「だってそもそも三次元のつぐはたち、二次元に行く事も出来なければ、四次元だってまともに分からないじゃないですか。じゃあどうして四次元ポケットは三次元と繋がってて、自由な行き来を実現させるのか、その答えが」新たに加えられた――綺麗な、丸。「これです」
「これ、って、円?」
「そう、つぐはは核心を突きました! 円だって二次元で、幅と高さがあるんです!」
始点にするからいけなくて、中央に置けばよかったんですよ、そう熱弁してから、更に彼女の持つマーカーが、円の真ん中に直線を横切らせる。
「この向きからだと線に見えますけど、これも上から見たら円です。円だと思って下さい。土星みたいな。そして今増やした線こと円yは、元の円xのレイルの役割を果たします。y軸に従って円xが回ると球ですよね? 何と、三次元です!」
「うん、楽しなって来たなぁ。そしたら、次の軸zは、縦に挿し挟む円やね」
「流石まつる先輩、分かってらっしゃる」再びつぐはの手がさっと動いて、円の内側で模様は十字になる。「はい、これで円x同様、円yもz軸に沿って回ります。円xは既に三次元ですから、回る円yはそれを無限に内包しますよね。四次元です。……ここで、今までになかった事象が起こるの、気づきますか?」
「……。円が、重なる」
「大正解です! そこですよあまね先輩、z軸の登場で、三次元と四次元は重なる事が出来るんですよ! これを故意に重ねたものがドラえもんの四次元ポケットの仕組みであり、そしてタイム・リープや生まれ変わり、パラレル・ワールドなんかの不可思議な現象を説明可能にする……『次元真球説』、素晴らしい仮説だと思いませんか!?」
つぐはの持論は、マッチ棒の一生程の空白を作ってから、燃え移り爆ぜる火として小さな拍手を響かせた。まつる先輩だ。「確かに、宇宙も球体やしね。ポアンカレ予想の延長と考えたら、自然な帰結やねぇ」
「ふっふっふ、そうでしょうとも。……何とか予想ってのは知りませんけど。何なら超弦理論とか言うのもさっぱり分かりませんけど、つぐははこれを独自に編み出したのです」
正直、とても興味深い推理ではあった――どころか私は考えた事すらない、目から鱗の落ちる思いだ。要素が現時点でまだx、y、zの三つしか登場していないにも関わらず、それまでと違って既に四次元を形成しているのも面白い。つぐはの眼力を軽く見ていた訳ではないのだけれど、それにしても慮外の展開をしている。
「……確かに、正しく見えるね。私の解釈とも一致してる」
「ふむふむ、あまね先輩もこれには思わず脱帽ですね。……え?」つぐはの語尾が、急に不安な跳ね上がり方をした。「えっ? ちょっと待って下さい、あまね先輩にも次元の解釈があるんです?」
「あるよ、一応」
「そっ、そんな話なんてした事なかったじゃないですか! 聞かせて下さいよ、と言うかあるなら自主的にして下さいよ! めっちゃ探究部らしい題材なのに!」
「……。本当だね。ごめん」
「いや、えっとあの……そんなマジに受け取らなくていいです、つぐはこそごめんなさい。でも聞きたいのは確かなので。ちょうど折角の機会ですし」
つぐはが場所を譲り、入れ替わる様にホワイトボードの前に立つ。書き込まれた図形を拭い取らなかった。この瞬間までとどまり続けた西瓜が、もう別の存在に見えていたからだった。まだ使わないマーカーを手にした時、教室の中へ予感みたいに風が一つ紛れ込む。それは、私には読み解けないものとして。
「……まず、私の考え方はもう出てる。これ」
キャップの先で、こんこん、と叩く。最初につぐはが引用した、六面体の列。
「あまね先輩は次元原理主義者ですか」
「原理、なのかな? とにかく進めるね」
「ほんでも、いきなりここからが難題やない?」
まつる先輩の指摘は尤もだった。x、y、z軸による理論は、既に三次元で完結してしまっている。なぜならこの方針で次元を考える場合、軸は互いに直交するべきものであり、そして四次元目となるi軸がこの三本全てと直交する事は不可能だからだ。
「ね、無理ですよね。だからこそつぐはも『真球説』を推してる訳ですし」
「……じゃあ、もっと根本的なところから始めるね。幅、つまり一次元の線は、〇次元の点を無限に内包する。……さっきつぐはの解説した通りだけど、そもそも『幅』とは何かって言うと、『点の無限の移動』の事、だよね」
「ええまあ、それはつぐはにも分かりますけど……」
「重要なのは、『無限の移動』が基盤ってところ。二次元の面は、一次元である線の『高さ』方向への無限の移動。三次元は面の『奥行き』方向への、ね。だから四次元は、三次元の無限の移動を意味するんだ。i軸の最初の捉え方は、『どこか』よりも『何か』の方がいい」
「えーでも、三次元の無限の移動って時間じゃないですかぁ」
「別に、私も時間が次元だとは思ってないよ。寧ろ物理的には、『重力、光、そして時間は、次元を超越する』って言われたりするね。……ただ、時間はよく似ているの。それを空間に置き換えるだけ。i軸の正体は『連続性』、言わば『一次元的時間的空間』を指してて、その軸は」私のマーカーは漸く、新たな情報をうっすらとつけ加える。「ここにある。――『x軸と重なり合った、全く別の軸』、として」
直交と言う前提を破棄した、同一、平行。全ての軸に接していて、いずれかの軸の延長でもない、異なる次元。それが私の思う連続性だ。だからつぐはの真球説も、連続性の意味では相違していない。
提唱を終えてから、静寂は長かった。鼓動が少し速かったから、次の言葉は私が用意した。
「時間が次元を超越する、って言われるのは、本来i軸の『連続性』に、過去や未来って概念がないから。でも、技術が重力に勝って飛べる様に、時間の影響を跳ねのけられて、四次元の純粋な『連続性』だけが作り出せるなら、四次元ポケットは無条件で成立する。ほら、時々ポケットから食べられる状態のどら焼き出してるし、きっとタイム・マシーンがある以上、技術的には可能な世界なんだと思う」
「……あー確かに。何かそれっぽい。……あーそれっぽーい」
飲み込んだつぐはの対面で、まつる先輩はじっとホワイトボードを見詰めていた。「ちょっと気になったんやけど、ええかな」
「あ、はい。どうぞ、まつる先輩」
「言うたらi軸は、x軸と重なっとるんやろ? それってつまり……」
「ええ。yやzに重なるそれぞれの軸、jとkも存在する事になります」
時間にもベクトルがある。普通はそれを知覚出来ないだけで、不自然には感じない。
「うわぁ、あまね先輩単独でもう六次元まで行っちゃってるじゃないですか。つぐはは四次元ポケットで頭が一杯だったのに」
「つぐはの説、よかったよ。円が重なるって発想、捨てる必要はないし、もっと深く掘り下げられそう」
「そやね、ええ論題やし、このまま進めてみよか。考察のし甲斐あるよ、どっちも」
まつる先輩の提案で、その日は次元論一色になった。立方体も中心を通る線に軸を取って回転させれば、頂点の描く軌道が円になる事。それが綺麗な球体にはならなくて、観測されない未知の隙間が生まれる事。真球説に四つ目の軸iは置く事は出来て、五次元以上は存在するのか。楽しかった。専門の学者からすればおままごとと同じかも知れない、けれど、私たちはおままごとで遊んでいて、それを楽しいと思える。私たちの全てだった。気づかない内に夕を迎えて、次元が飛んでしもたね、なんて冗談で笑い合う。
まつる先輩だけが反対方面だった。プラットフォームは向こう岸、電車が滑り込む直前に、必ず手を振るまつる先輩だった。私たちも決まって振り返す、それは遮られるよりも早く届いているのか、曖昧なまま。
ずっとそうだった。感覚が掴めない、誰かと離れる時の綺麗なやり方の。
「……あまね先輩?」
私の顔を無垢に覗き込むつぐはが、眩しい。彼女も器用だった、生きる事の何もかも。
空間を一瞬だけ強く煽る風があって、電車は到着する。ドアーが開く。
まだ互いの分かたれない、二人で居る事を許されたドアー。
やがてゆっくりと閉じて行く、だから私は、また甘えてしまう。