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生きて、いたくても――Sep#5

 絵具のついた筆を浸けた水が作る模様みたいに、景色がゆらりと揺れている。見慣れない天井。隣には偶見。その背景、画面の左側には、銀色の枠でとても小さくトリミングされた遠い空が配置されている。僕が知らない空だ。空と言うよりただの色、窓の中に展翅された標本。何だか目に映る光景が、見た事のない物体だけで構成されたレディー・メイド――既製品による芸術――作品の様で、まるでちぐはぐだ。それは本当は世界がバラバラなのではなく、僕の意識がバラバラになっているからだけれど。
「それで、まあ未来は確かに変わった訳だけど、大丈夫なの? 本当だったら来られない様な何かを回避して来たんでしょ?」
「あ、えっと……風邪引いたんだ」
「はい? 風邪?」
 鳩が豆鉄砲を食らったってこんな顔はしないだろうと言うくらい、偶見の表情は見事なものだった。一瞬で消えてしまったけれど。
「そっ、そんな重い風邪引いてまで来るな! 未来を変えるってそう言う事じゃないから!」
 正論も正論だった。いや、それを押してでも僕は踏み出すべき一歩――これが「未来を変える」結果になったかは兎も角、「自分を変える」最初の一歩を踏み出したくて来たのだから、そう言われても困る。正義と正論が噛み合わない、メビウスの輪みたいな話だ。
「いや、えっと……」
 とは言え、辛いのも事実だった。駅から学校までの一〇分の道程に至っては、舗装された道路が深い泥濘にさえ思えた。
「……まあ、来ちゃったもんは仕方ないから」今度は呆れ顔で溜め息を吐く。千変万化する表情は、見ていて本当に楽しい、なんて場違いな感想を抱かせるくらいに豊かだ。それは僕に足りないものだからこそ、余計輝いて見える。「兎に角、保健室行こう」

 偶見のつき添いを得て保健室まで行くと、愈々耐えがたくなって、僕は空いていた一番奥のベッドに、大熊先生の許可も待たず凭れる様に倒れ込んだ。霞掛かった意識の隅で、彼女と先生の話す声が聞こえる。
「宮下君、寝てていいよって」
 偶見は僕の右側、枕元から、左の足元までカーテンを引っ張り、ベッドの二辺を囲う。彼女の後ろに、小さな空が残った。
「ちょっと寝てさ、少し楽になったらもう帰りなよ」
「うん、そうする。一応薬は飲んで来てるから、マシにはなると思う」
「そっか。何か飲みものとか要らない? 買って来よっか?」
「大丈夫。ありがとう、何から何まで。迷惑掛けてごめん」
「気にしないで。じゃ、あたし行くね。病人の安静を邪魔しちゃうといけないし」
「うん。僕も、偶見に伝染すと悪いから」
「お大事に、宮下君。それから」去り際に、こちらを振り向いて言う。「明日は帰りの時間ジャストで大雨が降るので、傘を忘れずに」

 それは僕が登校する、つまり風邪が治っている前提の話で、ちゃんと治せよ、と言う意味の遠回しなメッセイジも含まれていたのだろうか、なんて都合のいい憶測を立てたりもしてみたけれど、本質である予言の方はしっかり当たっていた。
 金曜日の朝、雲は遠くにあって、少なくとも真上は快晴だった。傘を軽い杖代わりに、まだ少し続いていた不調を蝸牛の様に引きずって歩いた。
 本館の入り口、三年用の靴箱近くに配された傘立てに、傘は数本。それも「傘を立てるから傘立てと言うのに、立てる傘がなければそれは傘立てとは言えないので、最初から数本立てておいて完成とした」……そんな意図的なアート作品かと思う程の一体感を醸し出していて、置き傘なのか、少なくとも今日に誰かが雨を予測して持って来たものではないらしかった。当然雨の日であれば一杯になる程使われる、生きた存在の筈なのに、何故だかそれを思わせない、これだけで一つの個体、孤高の異彩に見えた。
 僕はそこに、電車内でも浮いていた自分の傘を差し込む。二つは融け合わないで、寧ろ僕の傘が傘立ての存在感を圧し、最早それは征服と言って齟齬のない状態になった。これも一つのデペイズマンだ。
 頭の中に、ふっと言葉が浮かぶ……「エラショオキュー」。芸術家、マルセル・デュシャンの代表作の一つ。小さく加えられただけのものが本体を食ってしまうところは、少し似ていた。やや不思議な語感が、何かを完了した時の合言葉の様に僕の中だけで響いた。

 その愉快さは、一日の内に於ける誤差でしかなかった。日常は変わらない。
 朝のホーム・ルームが始まる前、思い思いの喧騒が広がる中、角倉が僕の所にやって来て、数学のノートを机に置く。
「桜ちゃん、悪いんだけど、一時限目のノート、俺の代わりに書いといてくんね?」
 僕は、自分の「桜」と言う名前が――確かにそれまでにも、からかわれたりした経験はあったけれど――嫌いではなかった。でも今はもう、その名前で呼ばれる事と痛苦が等号で結ばれてしまっている。一等低次元なパブロフの実験だ。
 僕は……頷く。どんな答えを出すか。簡単な判断だ。数学どころか算数ですらない。
「んじゃノート借りるわ、宜しく」
 彼はそうして、僕のノートを奪い取って行った。返って来る頃には新しい情報が書き込まれている。決して文章とか数字なんかじゃない。汚れた言葉や、意味のない線や、下らない落描きだったりする。これくらいは日常茶飯事だ。
 主格の角倉、或いは川成や毛利たちのグループと僕の組み合わせは馴染まないものに見える筈だけれど、元々が所謂「やんちゃ」な性格の集まりで、ちょっとした軽いノリで垣根なくアプローチする。だから、僕に対しても少し絡んだりふざけたりがあってもおかしくはないし、それも身内のコミュニケイション感覚で親しげに接して来るから、周囲からは重大な認識が為されない。
 陰湿な手段を、彼たちは取らない。僕に特別私怨を持っていたり、貶めたりしたい訳じゃなくて、ただ自分たちが楽しみたいだけだからだ。
 その分直接的な、或いは物的、物理的なものが多い。それで以て発覚するのはまずいと言う考えはあるらしく、証跡が表出する程の激しい暴力や、堂々と公衆の中で明らかに「それ」と分かる事は殆どしない。また、ものを隠したりなどはその行為自体に面白味がないからか、こちらは全く経験がない。悪口やからかい、用件の代行なんかが主になる。言葉で並べてみれば軽い様に思えて、だけど受けている側にとっては、ひたすらに強い苦痛なのだ。
 その枠をはみ出した行為だって、当然ある。例えば、足を引っ掛けられる。それで転ぶと、「大丈夫? どんくせえなぁ」と手を差し出され、握ると異常な程の力で握り返されながら僕の体を起こす。手を借りなければ、何かを言われる。朝に会えば、「桜ちゃん、おはよう。元気?」と言う挨拶を伴って背中に平手を強打される。そう言う場合の攻撃は、必ず攻撃一方でない狡猾さを持っていた。また、特に移動教室の授業は席順が決まっていないから、化学や美術など大きい机を複数の椅子が囲む教室だと、僕の隣に座って作業を妨害したり、見えない所で足を踏まれたりと、格好の獲物になる。
 ノートは授業後、提出になった。僕は角倉のノートを教卓に置く。角倉は僕のノートを保持したままだ。カウントは僕の未提出になる。返って来たノートを処理して、後で持って行くしかない。僕の弱さだ。いっそ、そのままで出してしまえば――
 ――そんな蛮行、僕には出来ない。そう、そんなものは、蛮行なんだ。

「やっほ、宮下君」
 昼にもなると、雲はいつの間にか厚く天蓋を作っていた。それでも雨はまだ降らなさそうな色合いで、庇の下には行かずに待っていると、屋上の床と空模様、灰色と灰色の間から、狭苦しそうに偶見が入って来る。
「……ちゃんと傘持って来たけど、確かに正解みたいだ」
「でも、これくらいじゃまだ信じられないでしょ。観天望気って言うの? とかでさ、燕が飛んだから雨、みたいな」とても雑な知識だった。燕をもっと自由に飛ばせてやって欲しい。
「観天望気なんては言葉知ってるのに、何で要の部分を間違うんだ」
「あれ? 違った? まあそんなんはいいや。それより、ちゃんと信じて貰えそうな方法、あるんだけど」
「……本当に?」
「ただね、ちょっと諸刃の剣って言うか……宮下君の許可が欲しいんだよね、『過去視』の」
「過去視……って、過去を見るの? そんな事も出来るの?」
「うん、そもそもあたしの能力って、『時間視』なんだよね。普段は『過去視』なんてやらないんだけど」
「そう、なんだ? 何で?」
「あー、前に『未来視』があたしの主観って事は話したよね?」
「うん、聞いた。僕が屋上に来ないって言う、最初の時」
「そうそう。逆に『過去視』は対人限定、相手の視点で映像が出て来るの。つまり記憶とか、思い出の映像をそのまま覗き見る能力なんだけど、それって結構マズい力じゃん?」
 まあ、使い方次第ではいい能力とは言えないし、いい能力としての使い所を考えてもあまりなさそうだ。とは言え、覗き見られたって誰にも分からない。そこは良心とか、能力者側の捉え方の問題だ。
「だから、何かしら宮下君の過去を当ててみせれば信じてくれないかなぁ、とは思ったんだけど。でも、人間知られたくない事だってあるじゃん?」
「成る程ね。……そうかも知れないけど、やってみても、いいよ。それに、僕にとって嫌な事かどうかは、知られてみないと分からないから」
「……へー、男前だ。まあ、昨日能力使っちゃったから、連休明けまでお預けなんだけど」
 明日の土曜から、所謂シルヴァー・ウィークに入る。うちの学校は隔週で土曜日にも午前授業があるけれど、それは第二・第四土曜と決まっているから、第三の今週は休みだ。
「前にも言ってたけど、その能力って、一度使うと休息が必要なの?」
「うーん、まあ、ちゃんと発動するには間を空けた方がいいんだけど……この際だから色々説明しとこっか。分かって貰いたいしね」


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