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生きて、いたくても――Oct#12

 日の内に一度として屋上に行かないのは、初めてだった。
 彼女が来るのは昼休みに限られているけれど、それ以外の時間でも向かう気にはなれなかった。逃げ場として選んだ屋上、僕は今、そこから逃げている。或いは、偶見から。昨日の考えは脳内に蔓延したままで、その重さに、心は息も出来ないまま沈んで行く。
 いかにも負の雰囲気が出ていたからか、僕はいつも以上に格好の的だった。それですら、僕は罰の様に受け入れてしまう。ずっと、憂鬱に近い無感情だった。
 昼休みには、僕の姿を認めた角倉と毛利が僕の弁当を奪い取り、そのまま廊下奥のトイレットに捨てて流した。洗うと称してその流水に弁当箱を浸け、今度は乾かすと称して窓から外へ放り投げた。黒い容器は、裏庭の木陰に消えて見えなくなった。
 投げやりな自棄に身を任せていたとは言え、それは着実に、見えない角度から僕の心を殺して行った。外へ出て、土に塗れた弁当箱を拾い上げた時、傾斜したシーソウの踏み入ってはいけないラインを超えた。
 だけどそれに留まらず、放課後には更に一つの不和が、声と言う形を借りて僕の背中に打ちつけられた。一日の課業が終わってすぐに、直帰しようとした矢先だった。
「桜ちゃん、ちょっと待ってよ」
 足を止めてしまった事が、きっと始点の歯車を回し始めた。角倉の声に振り返ると、そこにはもう一人、川成の姿もあった。
「今さ、金持ってる? これから遊び行くんだけど」
「……そんなに、持ってないけど」僕は財布ごと差し出す。何も考えない。何かを考えたくもない。最早全てが、どうでもいい。
「あ? ああ、じゃちょっと見して。……あーはいはい、こんくらいありゃ全然いいよ、カラオケ行くだけだから。っしゃ、じゃあ行こう」
「……え、」
 想定外の言葉に、細波が立つ。「僕も行く、の?」今まで金銭を要求された事はあっても、どこかに連れ出された事はなかった。そうだ、三年の部活は終わっている。野球部だった彼たちにも、放課後に余裕が出来ているのだ。
「は? 何言ってんの? 俺らカツアゲしてんじゃねえんだからさ。もしかして、金せびられると思ったの? それちょっと酷いんじゃねえの、なぁ」
「……うん、ごめん」
「いいよ別に、ほら行くぞ」
 歯車はもう止まらなくなっていた。

 学校から電車を使わずに行ける、徒歩五分程のカラオケ店に入る。受けつけの若い店員に用紙を渡されて、必要事項を書き込むと、僕たち三人は最奥の部屋に案内された。
 電気のスウィッチに手を伸ばす様子もなく、暗い室内で二人は煙草に火を着ける。角倉はテイブルの上にあるメニュー表を手に取ると、専用のリモコンで番号を入力し、何かしらの注文をした。
「何頼んだの?」
「ポテトと飲みもん。何か欲しいのあった?」
「別に? カラオケのフード・メニューって変な噂みたいなの聞くじゃん。あんまり頼む気にならねえわ」
「いや、何聞いたか知らねえけどさ、元からそんな頼まねえだろ。高えし、あんま美味くねえし。な。桜ちゃんは何頼むの、カラオケ来た時」
「……全然、来ないから」
 いつもなら居心地悪く、怯懦と隣り合わせの状況でも、今は不愉快な確信があって、殆ど諦念に近いもので一杯だった。
 暫く経って、先刻は受けつけをしていた店員が、注文の品を持って入って来た。二人はまだ喫煙していたにも関わらず、咎める事は疎か、気にもせず退室する。
「ほら来たぞ桜ちゃん、食おうぜ。口開けろよ」
 瞬時に察知した。これから何かが始まる。言いなりになっていた僕だってその気にはならなかったけれど、無理矢理口を開かされ、ポテトを手掴みで押し込まれた。
 尋常な熱さじゃなかった。吐き出そうとすると、川成に口を塞がれる。身を捩った。押さえ込まれる。角倉がドリンクを差し出すのが、視界の端に見えた。
「悪い悪い、熱いよな、これほら、飲め」
 考える余裕はなかった。渡された飲料をすぐさま流し込む。甘い、けれど後味に違和感を覚えた。舌の中腹に、それが残り続ける。その工程を三回繰り返した所で、用意されたドリンクが何かの酒類だと気づいた。四回目には煙草の灰を口内に落とされて、それは今まで程には熱くなく、だけど飲み込める訳もないまま、灰は分解して粘膜に貼りつき、苦しさと不快感、酔いも回っていた所為で、僕は判断の暇もないまま、更にアルコールを重ねた。

 その後の事は、意識が分離していて、自分の体験と言う認識に変換されなかった。連れて行かれた男子便所で腹部を殴られ、酒の気持ち悪さと相俟って吐いた時の苦さ、個室に戻ってから服を脱がされ、煙草を押し当てられた臀部の熱だけが鮮烈だった。酩酊していた意識で見る世界は、金魚鉢に閉じ込められて歪んだ幻想の様な気がして、恐らく何の思考も経ないまま、殆ど隷属していたのだと思う。妙に冷静な絶望だった。
 火傷の痛みだけが、常に虚構でない事を知らせるサイレンだった。

 カウンターで申し込んだ内容に沿って定刻に退室したのだから、本来は計算すら要さない、決められた通りの時間しか経っていない筈だ。でもそれが、僕には信じられない。あまりに長くて、終わりが来た事の方が不思議なくらいだった。的確に繋がれていた元々の回線は全て一本ずつずれてしまって、感覚は麻痺どころか誤作動を起こしている。
 人として存在する為に必要な何かは片っ端から砕けて、その欠片は僕の一歩後を追って続いていた。ヘンゼルが進んだ後の道みたいに、標の並べられた行路を振り返っても、ここまでどうやって歩いて来たのかも記憶にない。
 僕は学校のすぐ隣にある、やや大きな公園の前まで来ていた。宵闇の迫った時間帯で、人は見当たらない。飲酒した状態のまま帰る訳にもいかず、また誰かに見つかってもよくないと思い、僕は敷地内の奥まで行って、適当なベンチに腰掛ける。
 自重を全てそこに任せたその瞬間だった。紙束の中から一枚の紙がすっと抜け落ちる様に、自我の消える感覚がした。
 人が死を選ぶのには幾つかパターンがあるだろうけれど、だとしたらこれも、その中の一つに違いない。ふと、全てがなくなる瞬間。死にたいと言う意識すらないままの渇求。純度の高い、生きる事そのものへの断念。無感情と言うたった一つの因子だけで作られた悪循環の内側で、僕は本能的に唯一の解法を手繰り寄せる。エネルギーを失っていれば、抵抗や摩擦が生じる事もない。死ぬ時に恐怖と無縁でいられるのなら……意外といい仕組みなのかも知れない。
 ふらつきながら立ち上がる。その時だった。
「宮下君!」
 聞き慣れた声。
 僕の末路に、必要のないもの。
「――偶見」
「宮下、君……」
「どうして、ここに?」
 息を切らせた彼女とは対照的に、僕の方はいつもよりも言葉がするりと出て来る。思考を経由しない、語句を投げ落とすだけの簡単なアウトプット。
「……昼休み、来なかったでしょ? 連絡も入れたのに返って来ないし、何かおかしいって。放課後すぐに宮下君のクラスに行ったんだけど、誰かとさっき帰ったって聞いたから……」
「もう、こんな時間なのに。ずっと探してたんだ。何かあったとも限らないのに」
「……ごめん、探した、とは言えない。そうしてあげられたらよかったんだけど、ずっと待ってた。本館の四階、南階段――その方が『確実』だったから」
 偶見が蹌踉めいて、体を叩きつける様な乱暴さでベンチに座る。彼女はあまりにも消耗していた。ずっと待ってた――その言とは食い違うくらい、寧ろ、それを超えて異常なくらい。
 目を閉じて、苦痛に顔を歪める。呼気も荒い。一〇秒程も間を置くと、ねえ、と言って開いた彼女の目は、真剣さを増していた。
「この事、先生とか、絶対誰かに言った方がいい。例え知られる事になったって、もう状況は変わってるんだよ。……証拠も残ってるんでしょ、その体に」
 すっと、冷たい風が左胸を突き抜けた。
「偶見、まさか」
「……宮下君に起こった事、今、『視させて』貰った。直近で鮮烈な記憶だから、『過去視』の対象になるのは必然みたいなものなの」
「そんな、見た……って、」
「だって! っ、何かあったに決まってるでしょ! 放っとける訳ないじゃん!」
「何、で……」
 彼女の瞳から落ちる小さな雫が、僕の渇き切った感情を濡らす。
 どんな相手より、偶見にだけはそんな惨めな姿を見られたくなかった。彼女は、その汚れた行為の数々とは対極に居るべきだから。お互いに断固として隔絶された存在でなければならない、天国と地獄はどこかで境界を触れ合ってはならないんだ。
「……違うの。これが元々起こる事だったら、最初に会った時みたいに、もう『視えてた』筈なんだよ。なのにあたしにはそんな未来『視えて』なかった。あたしの干渉が宮下君の未来を変えちゃったの、あたしの、所為なの……」
「未来が変わったからって、偶見が悪い訳じゃない。あり得た未来の一つが、現実になったってだけなんだ。だから、それに関しては気負わないで欲しい。……でも、ごめん。僕はもう、駄目なんだよ」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……お願い、死なないで」
 無理に作り出した映像の中で知ったのだろう。僕がされた事、そして、僕が死んだ事も。
 彼女の能力は最近使われたばかりだ。今日の昼休みに屋上へ行かなかったのは僕個人の問題だったけれど、それを訝しんだのか読み間違えたのか、恐らくそこで偶見は「未来視」を実行した。何が見えるかも保証されていないものに、代償まで伴って。
 どんな映像かは、僕には分からない。だけど僕は屋上からの飛び降りに幕引きを決めて、偶見は何らかの形でそれを知った。方法に関して特に思索していた訳ではないけれど、今の僕でも、きっとそうする。だから偶見はそこで待っていたのだし、合理的な判断だ。
 屋上には本館四階の南階段しか繋がっていないから、そこなら「確実」に経路になる。公園まで駆けつけられたのは偶然、窓から僕が見えたと言うだけだろう。確かにここからでも本館四階の窓は視認出来るし、制服姿は目立つ。
 偶見と話して、心は少しずつ感情を取り戻していた。そして、逆に気づいてしまった。やっぱりもう、本当に駄目なんだと言う事。命の欠片を一本々々飛ばしながら散り行く線香花火の心臓、最後の「珠」は、既に落ちていた事。
 相対量なんだ。オセロと同じで、少しでも黒が優勢で終われば、それが僅差でも決定的な結果になる。絶対量の残りの白が、どれだけ……生きて、いたくても。
「結局、未来は収束する所に収束するんだよ」
「やめてよ、お願い。あたしが悪かったの、だけど、それだけはやめて」
「寧ろ、感謝してる。何もないまま終わるより、ずっとよかった。楽しかった」
「ねえ、おかしいよ、そんなの。話を聞いてよ」
「ありがとう、偶見。救われていたのは本当なんだ。だから――」
 視界に黒い影が走って、
 突然の乾いた音と、
 右頬の衝撃。
「――馬鹿にすんな!」
 立ち上がった偶見の声が、落ちてなくなった筈の心臓に叩きつけられる。拍動が再生する。一つ、二つ。
「……偶、見……?」
「それでいい訳ないじゃん! 全っ然救われてないよ、そんなの! 全部言えよ、言っちまえよ! 痛いって苦しいって辛いって、何もかもぶちまけろよ!」
 アルコールの影響で残っていた脳の痺れも醒めるくらいの大音声で、偶見は叫んだ。僕の痛みも苦しさも辛さも、彼女が全部背負った様な表情で。
「そんな奴全員、殺してやりたいんだろ! 言えよ、思ってる事全部! 死にたいって、死にたくないって、殺してやりたいって……、生きていたいって!」
 彼女が発する言葉の奔流は、
 僕の堰を壊した。
「……そうだよ」
 動く事。
「死にたい訳、ないだろ」
 壊す事。
「誰だって……誰だって! 生きていられるなら、生きていたいに決まってるだろ! 本当に死にたい人なんか、この世に居ないんだよ! なのに……っ、生きていたいと思える世界がないから、だから死にたいんだ!」
 僕の、
「殺してやりたい、殺してやりたいよ……、だけど……っ、だけど出来る訳ないだろ、そんな事! それが出来ないなら、もう、僕が死ぬしかないんだ!」
 未来は。
「ああああぁあああぁぁあああああああああぁああああぁ!」
 盤面の白が、黒を駆逐して行く。
 終わったと思っていた世界が、その色を変える。
 死にたい、でもそれ以上に、
 生きたい。
 生きていたいんだ。
「……そうだよ、宮下君、それでいいの」
 溢れ出る涙を止める様に、
「よし」
 偶見の掌が、僕の両頬にそっと触れた。
「復讐しよう」


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