終わる世界奇譚(短編・2/2)

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 ――錯誤ではないのかも知れなかった。
 
 私の生まれ育った区域、ニーア・アティカイセラに着くまでのいずれの夜を問わず、定刻の儀は想像した通りに行われていた。
 遠目にも威容を誇示し続ける塔は、その建設に尋常ではない面積の土地を要している。つまり元々、障害にならない程度のものしか存在しなかった広い土地だ。実際どれくらい前の時代から着工したのか定かではなかったけれど、最後の砦と言う名分にして見たままの通り人工的なものとしては未曾有の高さに達しているのだから、相当古い筈であった。ゆえに塔の付近を少し離れると大地は本来の姿を見せ、人や街もすっかり減る。シーヴ・アルを走らせて凡そ五時間の片道なら徒歩では四日くらいだろうと思うけれど、これでニーア・アティカイセラは最寄りの「外界」都市だ。
 タネィと連れ立って二〇余日、その時の訪れ全てを確認した訳ではない。でも少なくとも、その時の訪れに私が起きていて、彼女が眠ったままの事はなかった。羊を持たない羊飼い一人に託された集落、粗雑な垣根と砂利道を臨む大変素敵な荒ら屋、大樹に吊ったパサドが宿だった日も。身を寄せ合っていたって彼女はすべらかな薄絹の様にすり抜けて行った、それは私の意識があるにも関わらず、目を閉じていると腕の中から居なくなった後で初めて気づく程に。
 どうしてか寂しさではなく、哀しさだった。
 覚えてしまった初めの一節を遠くに聴きながら、微睡みの温度で黙想した。……やがて失う筈のものを失えば寂しさ。失う事、或いは失った事を曲がりなりにも受け入れていれば寂しさだ。哀しさがそうでないのなら、私は。
 私が今タネィに抱いている愛情は、錯誤ではないのかも知れなかった。
 
「……シノネラの家? あそこに、住んでいた?」
「そう、家族三人でね」
 夕刻の街。空の弱々しい赤み、太陽がちょうど一番不安な、そのまま耐えられず滑落をしてどこかの果てで砕け散ってしまいそうな傾き。何と静かだっただろう。
 タネィはもう充分に〈シノネラ語〉の話者になっていた。遠回りはしても特別な不自由さはない。彼女が証明した事実はこの世界にとっていい報せに違いない。
「あんまりにも人が居ないから、自分でも、嘘みたいに思えるけど」
「……寂しいね、シノネラを好きな人、シノネラが好きな人、沢山居たところ、なのに」
 タネィが居るよ、とは言わなかった。代わりに頭を撫でる。確かに寂しかった、受け入れてしまっている事そのものが。……定義なんて、しなくてよかったのかも知れないな。
 小さな平屋。鍵を溝に押し込む。符合して、緩やかな反発で手元に戻る。収穫物でも盗品でもない、持ち荷の中の数少ない私物。蠢く様な鈍色をしていた。どこか不気味な感じを覚えた私とは対照的に、タネィの表情からは緊張が消えていた。私がそれまでの宿で錠を壊す時、またそうでない別の罪からもタネィは一度たりとして目を逸らした事はない。咎める瞳とは異なる、覚悟する瞳だった。風がまだ昼の匂いを含ませて通りの向こうへ吹き抜けた。
 自宅は……無人だった。扉の前に立った時から薄々は気づいていたけれど、もしかすると母なら、なんて期待もしていた。僻地へと飛ばされたのか神の御許に召し抱えられたのか――ならばタネィもそうなるべきであったからこちらは見当違いの考えだろう――どちらにせよ不在の事実だけを突きつけるこの家に、安心も、終点を妥協させる様な空気もなかった。白く塗られたざらざらとした壁、脚の交差した食卓、編みものの道具入れ、そんな懐かしささえ覚える面影の在処がもたらす些細な余裕だけだ。
「少し休んだら、街に出て何か探そうか、タネィ」
「荷物は、置いたままで、いい?」
「鍵があるからね。大丈夫」
 タネィは広間の椅子に深く沈み込み、足を伸ばしている。労ってあげたくて、食材の類は壊滅だろうと思いながらも飲料の無事だけ願い、異臭を覚悟してフレルナを開けた。中身はそもそもが空疎になっていて予想より惨憺とはしておらず、飲み水や調味料を始め、食べられそうなものも状態よく散見される。一応自分の舌で確かめてから甘いキーオルを振舞うと、タネィは嬉しそうに喉を鳴らした。
 ついでに水の確認をしておく。機能しているのか何かしらの惰性なのか私に判断はつかないけれど、通ってはいるらしかった。いつ止まるとも知れず、手近な容器や鍋などになみなみと溜めた。今日は体も衣服も綺麗に出来そうだ、着替えさえあるのだし。後は何をしよう。目の前の、必要な事だけを考えた。
 柔らかく蝕まれようとしている心だった。馴染んだものに触れれば触れるだけ強い違和が襲い掛かる事に気づいてしまっていた。取り違えていた、「不在」は決して本質ではない。主体は、欠如した空間に元通りの私の命だけがある生々しさだ。吐き気がした。
 押しとどめていただけだ。記憶の箱の上に座って、見えるものだけを見ていた。だから、寂しいなんて戯れ言で誤魔化せていた。どうしてこんな事になったのだろう、試練とも呼びたくない酷い仕打ちだなんて、今になって考えるにはあまりにも苦しい。
 すっと差し出された杯に、反応が遅れた。
「……タネィ?」
「シノネラに、あげるね」
 キーオルの色ではなかった。澄んだ綺麗な白。
「飲んで、みて」
「……うん」
 ゆっくり、口に含む。知らない味、虹を濾したみたいに不思議でなめらかな、優しい味。
「ありが、とう。どうしたの? これ」
「虹の、雫」
「えっ?」
 タネィはあのくすくす笑いをする、そして、
「キオーオ・カャナ・デイム・ユフミナア、シノネラ」
 私には分からない言葉で、呟いた。思わず泣き出しそうになるのを、私は必死で堪えた。
 その深い瞳で全て、見透かされているのかも知れなかった。それは親しんだものがもう心を害さない様に守ろうとしてくれるタネィの贈りものだった。虚構めいたこの部屋でただ一つの真実になってしまった私を満たす、タネィと言う新しい世界だった。
 数えれば絶望は腐る程も出来る。詮ない事だ、私はこの絶望も塔へ持って行くのだ。
「お出掛け、しよう、シノネラ」
「……そうだね。行こっか」
 手を握る。旅立ちの日と同じ様に。
 
 均整の取れた街並み。華美ではなくても素敵な景観だ、いい意味で古い、私に言わせれば。ニーア・アティカイセラ南部のこの一帯は「歴史地区」と呼ばれる。つけ加えるまでもなく皮肉だ。ここを起点として拡張を進め、やがて十数倍に規模を広げたその全てがニーア・アティカイセラの名を冠した。移民の大半が集結し、その中の大半が塔の事業に携わったと言われている「仮設の世界」。次第に住人は塔へと流れ、最終的な人口が最も多くなったのも「歴史地区」の意味合いに含まれる。
 売店の幾つかは有用なものが窃取された後で、どこも、私も同じだけれど、人の存在の証跡は荒み切ったものになっている。……「神罰」、か。
 タネィの身の丈に合う衣類を見繕う。いざ着なくとも、荷として適度なら布があるに越した事はない。それから……サルタロッセア。世界の中で生き延びた花、私の一番好きな花。野で摘んで押し花にでもするのがいい。明日からの為にどうしても欲しいものであった。
 次の小径を歩む。徐々に暗くなる家々だった。却って雨でも降る方が光量の足りそうなこれからの夜を思わせた。タネィと一緒の私とは別の私、孤独を吸い込んでは逃がせない私が顔を覗かせようとする。出掛ける前に、この街で鏡を見ない事を決めていた。タネィの掌の熱に意識を寄せると、それが救いに近づいて行く。
 大通りへと抜ける路地の角を曲がった時だった。その後ろ姿は鮮烈に映った。
「……ポーラ?」
 線は細く、背筋の張って明るい印象の出で立ちをしている。何より彼女の宝ものの髪飾りを見間違える道理がなかった。ポーラ、そう言い掛けて一度踏みとどまる。「プラナ!」
「……//?」
 振り向いた。遠目でも分かる。やや面長の溌溂とした雰囲気はまさしく――
「センラ! キンガー・クリンガー!」
 ――ああ。まさしく彼女はプラナだった。亀裂が明確に走った。思い出したくないもの、記憶の箱の中に押しとどめていたものがその段階を一飛びにして実体になって目の前に現れたのだ。彼女も承知しているだろうから、それはすかさず口をついて出た言葉の筈だった。呪文にも似た響きは、しかし私を打ちのめした。……プラナ、なんて呼ぶのではなかった。決定的ではない部分の瞬時の後悔でさえもが、心の底の方を突き破るかの重さをしていた。
「……、シノネラ……」
 少し低いところから小さく私の名前が聞こえた。ぐらつく様な足元がその揺れを微かに潜める。振り子みたいにゆっくり、静かに、位置を定めて行く。
〈プラナ〉は駆け寄るなり困惑の表情を浮かべた。「アー……」どんな挨拶も接ぎ穂にならないのは理解していた。彼女が選んだのはタネィだった。「ジュンナー?」
「……この子は、タネィ」「ッリロ・ヅュ・タネィ」
 それを進展とは称しがたかった。経緯一つまともに話せやしない。彼女の今まで、私たちの今まで。こうして再会出来た事実がそれぞれの神罰の程度を物語る程度だった。
「シノネラ、この人は、友達?」
「そう……プラナ。子供の頃からの、長いつき合いの友達」
「プラナも、この街に住んでいた?」
「ずっとね。私もプラナも、生まれてから、ずっと」
 通じる筈のない目配せを彼女に向ける。瞳がゆらゆらしていた。まずい、反射的にまずいと思う徴候だった。
「マ、マウ・ワトゥック? センラ、タネィ……マウ……」
 狼狽えている。私とタネィが当然の様に話せている事、それが彼女の中で悲劇的に捉えられているのは推察の外れ様がなかった。聞く耳を持とうとしない時のポーラだ、神罰以前でそうだったのでは、もう。
 ポーラ、そうでない事は分かっている筈だ、分かっている筈なのに。
「――////! //////、////////……!」
 激情を喚くと彼女は途端に踵を返した。そして今度、亀裂を確かにしてしまったのは私の方だった。「待って! ポーラ!」
 ……初めてだった。震える程に青褪めた顔を見るのは。
 そして彼女が去り際に残した最後の一言は、まるで冷たくなっていた。どうしてかそれは私の知る「さよなら」と響きが酷く似ていて、意味を知りたくもなかった。
 
 何か呑気な目印の様で、明かりをつけるのが躊躇われた。けれどそれを許せる浅さの夜闇ではないから、仕方なく広間のカグフシに火を弱く点す。温浴の為でもあった、カグフシは家の殆どの動力を賄う。窓掛けは可能な限りぴったりと閉じた。ポーラの家は街路を六つも違えた向こうだった。
 サルタロッセアは諦めた、と言うよりはもう気力を持ち合わせていなかった。一刻も早く、と思って帰る場所がここである事。ひたすらに晩食を支度した。整理したつもりだったのに、夕の入りの頃と心が大差なかった。
 献立は質素で、最大限の贅沢でもあった。「……シノネラ。ポーラは、いい人?」食卓の向かいでタネィが手を止める。恐る恐るの口調だった。タネィは賢い。決して過大評価などではなく、敢えて機微に触れようとしている。……そうだ、だってタネィは、一度プラナと紹介した彼女を「ポーラ」と呼んだのだ。私の愛する人を、私の知る名で。充分だった。
「いい人だよ。わがままで、難しいところもあるけど……勉強熱心の頑張り屋でね、面倒見もよくて、人づき合いの距離感を見極めるのも結構、上手かったんだ……」
 タネィに教えられていない言葉をよく使った。それからはどちらともなく口を閉ざして、無言の私たちが暫し夜に合流した。風呂にはタネィを先に行かせた。
 一人の自室。カグフシの火を控えめにしてあるからやや暗く、適度な調節だけをする。疲れていた。無心の模型だった。寝台に座り込んでいたのが、やがて横になる、意識もせず。私は思考の浅瀬に居て、掬い上げる余力もないまま沼気の様に浮かぶ悪い考えのすぐ消えるまでをただ眺めていた。却って都合がいいのかも知れなかった。
「お風呂、終わった……シノネラ?」
「ん、ありがと」
「寝ていた?」
「ううん、起きてた。大丈夫」
 招き入れて、タネィに寝台を譲る。仄かな明るさは彼女をもっと愛おしくした、それは調理の仕上げに一つまみの砂糖を加えるのと似た、慎み深い効果だった。湯上がりの髪を撫でる。服、ちょうどいいね。彼女は頷いて答えた。
 歌を歌いたかった。浴槽に身を沈めてからは延々と詞のない旋律を繰り返していた。上塗りされた〈シノネラ語〉はどうも既存の調べに適さない。音階だけに声を委ねた。体の温まり始めた頃、曲は一つになった。もの悲しい伝承の詩歌。そればかりを囁く様に口遊んだ。私がその間ずっと俯いていた事には、体を拭いている時漸く気づいた。
 部屋に戻ると、タネィが小さな薄板を手に見詰めていた――カリファ・フィーネだ、キロとポーラ、そして私を彫って貰った。ミリオードの隣、出窓に飾っていたものだ。
「それ、見てたんだ」
「あ、」タネィが眉を下げる。「むだん、で、見ていた。……セノレ、シノネラ」
 ……私が、聞き間違えたのだと思った。
「タネィ? 今……何て言ったの?」
「……悪い事をした時の、言葉。セノレ……まだ、教わっていなかった、から」
 耳鳴りと、閃光――それを起こさせる兵器の様なものに衝撃は匹敵していた。あっては、ならない。あってはならない事が現実として凶悪な音で叩きつけられた。
 セノレ・クルーシリィ、は、贖罪だ。祈りでなどなかったのだ。だとするならば数多の悔悛のそこには私も含まれている。捨てて来た良心、私の行いをタネィは自己の同罪として一身に引き受けて。彼女の決意を表した双眸は私が思い至らないところの、私とは遥かに次元を隔絶したものを見据えていたのだ。
 そして……何よりも。タネィがまだ知らない私の言葉。明白な意味だった。言った事がないのだ、私は彼女に一度たりとして謝る事をしなかった。その場面は思い返せば幾つも幾つも幾つでもある……あるのに私は、どうして。私の心の惨めさは彼女までもを巻き添えにして、彼女を顧みない程まで堕してしまっていたのだろうか。堪え様もなく泣き出したくなって、私がその立場にない事を自覚し直した、時にはもう膝が崩れて、泣いてしまっていた。
「シノネラ、悲しい? セノレ、悪い事、もうしないから」
「違うのタネィ、ごめんね……悪いのは私なの……ごめん、なさい……」
 ……思えば、どこまでも不足した均衡だった。
 互いの気持ちを正しく交わす為にタネィは私の言葉を覚えた。私はきっと、両手の指で収まる程にしか彼女の言葉を知らない。会話する時タネィはよく私の名前を呼んだ。シノネラ、シノネラ。それは記憶から一生離れない声だろう。夜にはしばしばタネィは私に寒くないかと訊いて、私は答えた。尋ね返す方が稀だった。どこまで山積しても後悔は後悔で、いずれも取り消せない過去なのだ。
 ああ、馬鹿げている。滑稽でさえあった。私はこんなにも、――
 ――柔らかな熱源だった。
 額から全身へと注がれて行く、許しめいた熱。頬に彼女の手があった。
「……っ、タネィ……」
「シノネラは、悪い事をした?」
「したよ、一杯した……! もう、どうしようもないくらい、……!」
「悪い事をして、シノネラは、『ごめんなさい』をした。そう?」
「でも、だからって、」
 す、と息の音がした。
「……シノネラ。私は、ここに居る。シノネラの『ごめんなさい』を、私は、ここに居て、聞いた。私は、シノネラを、いい、と思う。……『だいじょうぶ』」
 ――どうして。どうしてそんなに、優しく出来るの。
 私が私を許せないのに、どうしてあなたが、許してくれるの。
「聞いて、シノネラ」まただ、――す、と鳴る呼吸の、慈愛の前兆。「キオーオ・カャナ・デイム・ユフミナア……イ・イ・エスノキッキア、ミロン・セルポーネト・ヒスドキシィ・シヴクレエ、シノネラ」
 タネィが笑う。もう何も、分かつもののないみたいに。
「シノネラは、だいじょうぶ」
 悲鳴の様に泣いた。それがやむまでずっと、彼女は私を抱き締めていた。
 
 初めてだった、その時刻にタネィの動く気配で目を覚ますのは。
 口づけ、と言う名称を教えた。寝つく前には、私も唇でその可愛らしいおでこに触れた。行為としての誓い。寄り添って語らぬ時がいつだって私たちの無垢な愛情を、それは夜の為の歌がそうである様に、深く繋げようとした。自惚れとは微塵も信じていなかった。不意にポーラを思った。私がポーラについて少しばかりの時間を尽くす事にタネィは反対を示さず受け入れた。カリファ・フィーネの、その思い出話をしながら眠った。夢を見なかった。
 その日の、セノレ・クルーシリィ、は痛ましさも清々しさも伴って耳に届いた。玄関扉のすぐ前に居るらしかった。元は、いや、今尚これは盗み聞きに相違ない。タネィは感づいているだろう、それはいつからとも知れないけれど、だからもう私は広間で堂々と出発や朝食やの準備を始めていた。この間に私が介入して出来る事は何もない。減らせたらいい、この懺悔を少しでも。静かに神妙に終わりを待った。最後の一節が唱えられると――更に、覚えのない文言が続いた。
「セノレ・クルーシリィ……ユトロ・クルーシリィ、ッリロ・タネィ・シノネラ・ティート」
 寧ろ大半の単語は分かるのに要旨の不明な、私の名の入った全く新規のものだった。また冷涼でない感情の温みのある語りに思った。扉を開けたタネィに食事の出来上がりを告げる。内容を問うのはよした。
 やがて立ち去る段になって、手癖で掛けた錠を一度やり直して外した。父も母も眠りの最中だったのだ、私と違い鍵を持っている訳はない。
 食卓に手紙を残してある。読めなくて当然だから絵を描き足した、本当なら添えるつもりでいたサルタロッセアの、拙い絵を。タネィが望んだので、彼女の――洗練されて簡潔な、しかし独特の文字の――書き置きも付記した。優しい並びをしていた。
 それと……カリファ・フィーネ。乱雑に飾っていた訳ではなく丁寧な手入れを施している。和解の為に足を止めるかは考えた。顔を合わせれば、今は疑うだろう。結論として私は私たちの間に必要な休日を用意した。暫く経ってあなたが尋ねて来たのなら、思いはこんな板切れを通じてきっと交信するだろう、ポーラ。私は私の探究の為に塔へと赴き、タネィへの愛情の為に同行して導き、まさにポーラへの信頼の為にこの決断を優先した事であった。
 太陽は幻想的に明るい。昨日の杞憂を笑えた。旅立ちの朝の街路であった。
「歴史地区」はじきに見えなくなった。
 
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「シノネラの、知らないところ」。タネィは言った。彼女についてしばしば尋ねた時の、答えの一つだ。イツワリエは広い。彼女の故郷が私の見聞から漏れている可能性は充分にある。また彼女の言葉で語られた地名を私の情報と同定するのも困難だった。だけでなく、心なしか返事のその声が間遠く、以降過去の話はあまり振らなくなる。
「タネィは何で、塔に行くの?」
 いつだったか、イア・ウィヤ――中継の市街――を通過した後だったのは覚えている。そもそも未だ複雑なやり取りは語彙を尽くせずあぐねる事が多い。
「シノネラが、行くから」
 けれどタネィにはこう言うところがあった。掴みどころのない風であった。口でははぐらかされている様なのに、彼女は出会いの時と同じ玄奥の目つきをした。私が塔に行く理由、世界の声を聞きたいのだと告げた時、それは一層深まっていた。
 最後の四日間、塔との距離が縮まる毎に緊張と気の滅入りそうな威圧感に苛まれた。中途からの曇り続きの陰鬱さも手伝った事だろう。たまに光が差すとその無数の線はまるで火でもつけた花束みたいな邪悪な美しさを引き起こして、二輪、一輪と残してやがて燃え尽きた。そうするとその夜は燻った暗さを持つ。いずれも野宿だった。必ずタネィを胸に抱いて寝た。この間もやはりタネィは儀礼を欠かしていない、〈シノネラ〉の一節もずっと加えられたまま。
 想像した以上に人との遭遇を果たさなかった。圧倒的な多数が塔に居て、誰も等しく四散したのなら寧ろ地上には溢れ返るくらいであるべきだった。様々の鳥や野生動物は多少なりとも目にした。花や草木も無事である。けれど牧畜はついぞ見ていない。果てしない煩悶には充分に過ぎた。生命の復興、失われた人たちの行方、タネィとの向後。未来にある物語は遠大で見通しの利かない不明瞭なものばかりで……しかし少なくとも原初の、旅の物語には終止符が打たれる、その筈であった。
 ロク・トロガッタ・イト・ヴィーヴァ・クィ・ヌーミ。灰とも銀ともつかない怪しい色味の重厚な壁面、気を逸らせるばかりに長々とした外周に沿って辿り着いた入り口は扉さえ規格外で、また物騒なまでの拒絶であった。不気味な配列をしている窓は最も低い位置のものでも外界からの侵入を充分に諦めさせ、仮に登れたとしても考え得る幼稚な方法で割れる様には出来ていないだろうと推察された。
「タネィ、疲れてない? 別のところを探そう」
「……」
 放心の沈黙だった。私も内心の大きな体積では無理を悟り始めていた。要するにこれが声なのだ……「世界は口を開かなかった」。乾き切った事実。神罰の由来であるここに求めた解や神秘の類などは何もない、塔は結局のところ「格別な人家」だったのだ。閉鎖的なこの人家の厳めしい扉はそもそも「世界」が機能していた内からも滅多な事では開かなかったろう。
 風が暴威めいて来ている。天頂では夥しい雲の質量が枯れ葉でも吹く様に流れて行く。帰途は危ぶまれた。立ち尽くしたままのタネィを呼んだ。
「行こう、タネィ。風が強いよ。凌げるところがあるかも知れない」
「……」またしても無言なのだと思った。彼女を動かそうと引き返して、突然声は明瞭に届いた。「リフィーチ」
 靴が砂を噛んで止まった。様子が、佇まいや顔つきの感じが違っている。タネィの存在が彼女自身の核、体の中心から密度を増してこの瞬間恐ろしく変容を遂げると言った――ちょうど蛹の生態とよく似た――そんな具合の印象を抱かせた。塔の、肌を圧す雰囲気も密度の材料になったみたいに失せていた。その吸い込まれたものの中には私の意識も含まれた。
「来て、シノネラ……『ひらく』」
 次に彼女が声を発したので漸く自我は冴えた。タネィは一瞥もしない。彼女の隣までやっと足を運ぶと、扉はちょっと機械的な奇妙な鈍い音を立てながら遅々たる動きで両側に引いて行くところだった。タネィが開いたのだ、と反射的に手放しに信じた。
「入ろう、シノネラ」
 私はただ従った。彼女の言葉にではなく、彼女に従って入ったのだった。
 
 半円の屋根のある廊下は長く、時々に小さな階段を設けては私たちを地上から離れさせた。太陽から逃げた者たちの建築だった。その屋根と階段の為に、視界の先に広闊な空間があるのは分かったけれど、それがどう言った風になっているのかまでは見えなかった。明るいのは確かだった。光源が生きている。厭わしくない暖かさもあった。
「シノネラ、もうすぐ」
 最後の階段を上る。先刻の凄みをタネィはもう全く放っていない。そうした呆気なさは却って私を惑わせた。前を歩く彼女の髪から背中、足元へと視線を滑らせる。至って自然な元気を纏っている。華やかな踝の下で、靴が新しい。どこかそれを不調和に思った。私の足音だけがいやに障った。
 やがて薄暗い通路から出てそこに溜まっていたあらゆる光に対峙した時、耐え切れず目を細めた。その刹那を手を翳して庇にして凌いだ。全貌を理解して来ると莫大な空間は私にとって信じがたく、異次元な、或いは未来的な、またそう称しても正確でない未知を突きつけた。
 そしてそこは、がらんどうであった。
 剰え人の、生活の形跡は削除し尽くされていた。まるで竣工されたばかりかみたいに、周囲の室を眺め回してみても、例えば物資や床の汚れや、あるべきもの、なくてはおかしいものが悉くないのだった。しかしこの明かりであるとか、空調などが程よく誂えられているので私はにわかに寒気を覚えた。
「これが『世界』、これが、声なの……?」
 この所業は、大いなる作為でしかあり得なかった。もしくはこの塔に居住していた人たちは皆、持ち込んだり生産したりしたものごと消滅して、飛ばされてすらいないのではないか、それは邪推だろうか……その「大いなる作為」はどんなものが、いかにして生じさせたのか……そんな考えがちょっと堂々巡りをした。
 塔の中央は吹き抜けになっていて、一回り小さな柱が貫いている。ちょうど人の通れるくらいの大きさの扉が側面に飛び飛びに取りつけられ、得体の分からぬ昇降機にも思えたけれど、見える限り各階のどことも接しておらず、その訳はなかった。仮に気が遠くなる程の労働を強いる螺旋状の階段にしても同じ理由で使えない事だった。純粋な柱でもないだろう、それは用途と自己矛盾をしている。入り口があるなら中空の筈なのだから。
 私の影は真下で小さくうずくまっている。それで吹き抜けの辺りを仰いでも光源や「光の方向」は知れない。ただこの光が今もたらされている暖かさの要因だと言う事を私は意識の外に直感していた。
 ――この塔は、春だ。春の屋外を思わせた。
 未知と言う他はない。いよいよ我慢が利かなくなって、三度程、大声で呼び掛けた。返事はなかった。
「ここは、何……?」
「大丈夫、シノネラ。怖くない」
 落ち着き払って、綺麗に澄んだ玉を気持ちよく打つ様な声で私を諭す。塔の内側で不思議に揺らめき反響しているにも関わらず、耳には一つのはっきりした塊として感じられた。タネィと塔は親和していた。旧知みたいに思われた。
「シノネラ、こっち。ここに来て」
 彼女は言葉を繋いだ。指が差したのは中心の柱、一階の扉だった。青銅の色をしたその表面には模様や人が曲線的に描かれていて、何かの書物で既視の高名な彫刻か、或いはもっと古い壁画の様だった。更に近寄ると装飾の一種程の自然さで、浮き彫りにされた形で文字のあるのが分かった。「……愛を、示しなさい」、と読めたのに私の理解は大きく遅れた。
「これ、この字って」
「……シノネラ、読めるの?」
 否応もなく書き置きの手紙が想起される。あの優しい並び――清らかで慎ましい、草食獣の大人しさの様な、または蔦の植物が自信の健康的な成長を漲らせるかの様なあの文字。それと同じもので、こちらの抗いかねるくらい凛として熱烈に記されていたのだった。愛を示しなさい……〈ユトロ・ジューニム・タネィ〉。
 猶予が与えられていたのだろうか? 私が瞠然としてただ立ち竦むだけの。
 
  お許し下さい神よ……示します神よ、私からシノネラへの愛を。
 
「分かるんだね、シノネラ……」
 私の鼓動を酷く乱し逸らせた。どんなに濃密に織り重ねられていた真実であった事か。一挙に全てを悟る事の驚愕、畏怖、この神秘、人の汚穢を悉皆消失せしめた恐るべき塔。私は扉が開き始めるのを見た。眩めきそうな光、目を瞑らずにはいられない光であるのに私はそれをしかと見た。打ち震えるあまりに肌がじいんと沸いた。この扉に踏み入った後の、行き着くところを予感した。この並外れた塔はいかにして私にその文字を解読させてみせたのか、出自を私の知らないところなどと言った彼女、ああ、タネィとは「愛」の意味であった。
「シノネラ……もしかしたら、私」
 光の中へ消える彼女は本当の姿をしていた。ただ一点に於いて未完成なだけだった――瞳。
 彼女の瞳は逃げたがっていた。
「間違ったのかも知れないね」
 私は理性も何もなく手を伸ばした。――
 
 前後不覚であった。それはかつて体験した事のある感覚を伴った。
 ――暖かい雪。向日葵の上で眠る猫。輪になって巡り続ける川。少年は空を辿り、地平線と追い駆けっこをする。いつしかの記憶と合致する光景……いや、あれは記憶の中に綴じたと言うだけの夢だった……しかし今まさにそっくりそのまま眼前で繰り広げられている……
 色鮮やかな見事な草原、それはところどころに控えめな花が咲き、いかなる花が咲いていても調和する草原に座り込んでいた私は、立ち上がろう、と思う間もなくこれ以上ない身軽な自由を得て立ち上がっていた。それはちょうど雲の上にでも居る心地だった。
 つまりは、そうかつまりは――こう言った訳なのだ。或る眠りの内で私が空想の夢だと信じ込んでいたものは、偶然か、もしくは必然にして先んじて触れる事の許された展望だった。すなわち巨塔は誇張などと無縁に、確かに到達してしまっていたのだ。私は光を伝ってその頂上まで昇り詰めたのだ。
「……、タネィ……?」
 私の五感は彼女の存在を空気を微塵も捉え得なかった。焼きついている最後の瞬間はどうしても別れ際めいていて、間違ったと言うのが分からなかった。あの愛らしい少女が隣に居ない事は今を以てやはり哀しさであった。
 私は「世界の声」を聞いた。真実の〈最後の楽園〉。神罰、祈り、安息。まさに真実はこの魂の国に一揃いしている。ならばこそ欠けた真実のあるこの懐疑が捨て置かれたままでいいものか、私は、彼女の行方をここに見出ださねばならない。
 その時無慈悲にふっと、意識に不純物が混ざり始めた。緩やかに溶暗し遠のいて行く……落ちるのだ、と思った……。なぜ。真実を、真実を、私に。
 私が完全に消え去る直前、応える声があった……
 
 瞼をわざと閉じていた。自我が冴え切って尚そうしていた。その最も残酷な真実が止めどなく脳裏を往来する。
 愛の名を戴く天使にして己の無力を知るタネィ、彼女は憐憫ゆえに望んで世界へと降り立った。例え小さくとも直接に愛を施そうとした。地上に育める希望を、人の愛を信じて。
 彼女は旅人であった私、塔に行くと言った私を知らない。身一つでしかなかった為に私を確かめる術として彼女は同道した。観察する内に私はその理由を「世界の声を聞きたい」と語った。彼女にすれば不遜にも聞こえたろう、彼女は今や聖なる塔の扉を開き、自らの愛を示して一度かの地へ導き、世界の声に代わる真実を伝えようとした、塔は人を、私を認めないと考えて。その拒絶をして私が絶望し、否定し、または怒り、悪い魂へとなり果てる結果を嫌って。
 それであった、彼女の呟いたのは。私の聞いたのは。過ちとはその邪推、尊大な幻覚、醜い僻見、光は、実際そうした様に私にも解き明かす事が出来たと言うのだ。
 
  私は神も人も、人の愛も信じ切れなかったのでした。
 
 爪先の血の気の失せているのが分かる。命の途中である私ばかり永らえて、この世の未遂の事柄を託されて、しかり、私は地上で果たすべき生煮えのあれこれ、肉体と精神の責務を抱えた人の身であるけれど、今そんな事は問題にならなかった。まるでいい面の皮ではないか。これもまた人に与え給う試練と称するものか。尚も私の最期の時まで善良なる魂の素養を求め愛を示せと言うものなのか。よほど私は悪い魂になり下がってみせるだろう。破滅した大いなる愛やこの世界と共に堕落してみせるだろう。
 タネィ、私の信じる限り、きっと魂の牢獄で、それでも祈り続ける少女よ。
 私はいかなる祈りを以て、愛と呼ぶものの何を今なら告げられる?


 あなたには「淡い夢を見ていた」で始まり、「今なら告げられる」で終わる物語を書いて欲しいです。
#書き出しと終わり
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