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マチネとソワレという大舞台へ馳せ参ずる時が来た(あごぶろぐ)

今回はnote大陸に流れ着いて初の漫画・レビゥーをする。漫画・・・そう聞いて「今のってみっしつで殺し合ったりすぐに異世界に行くやつでしょ」みたいな決めつけするヤツもいるかもしれない。これについて自分は黙って首を横に振るのみだ。嘆かわしい現代病・・自分にはその原因も掴めている。ネット海とかを回遊しているときに「週刊少年○○のはんばいすうが激減?」みたいなスカムサイト記事を読んだ者とくゆうのレッテル張りだ。そういうやつは決まってレジェンドコミックの話をするというBIGデータもこちらにはある。80年代とか90年代のいわゆる名作と呼ばれるマンガを読んでいるから今の漫画は読まない・・・そういう姿勢を貫くことで自分のマンガ観を崩さないみたいな浅はかなスタンスに殉じているというわけだ。娯楽が飽和した現代と当時を比較することは誰にもできないというのにも関わらずだ。こいつらは完全にレジェンドコミックという王都に立てこもり延々と平和を謳歌しているつもりだが自分に言わせれば甘いとしか言いようがない。数千年間ドラゴンを通したことのなかった絶対防衛を盲信するあまりに突如現れたドラゴンの姿が信じられず、尻もちをついて逃げられないまま・・・クワれる・・・そういうことが起こる。そのドラゴンこそが今の時代というリアルタイムを生き抜く漫画たちというわけだ。

マチネとソワレ」……それがこの漫画のタイトルだ。ちなみにこいつらの名前はマチネでもソワレでもない。マチネとかソワレというのは演劇の用語でマチネが昼公演、ソワレが夜公演ということらしい。今・・・調べた。この作品では演劇を取り扱うのでその点では奇をてらっていないタイトルということになる。演劇……そのテーマだと聞いて血気盛んな者たちは肩を落としたかもしれない。ロード・トゥ・ドラゴンのような重厚なダークファンタジーを求めていた者たちは涎を垂らしながら暴れまわるやも……だがその懸念をしていない自分ではない。自分も少なからず血に飢えているきらいがあるがその自分の目線でもこの作品の中ではバイオレンスとアクションが爆発し、真の男たちが狼のように吼えたけるのでかなりまんぞくするからだ。読み始めればすぐにマチネとソワレが並ある漫画の実写版映画のようなお遊戯会ではない真の戦士のための演劇バトルステージだということがすぐにわかるだろう。すぐにでも紹介を始めたいがまず先に作者の話をする。しておくべきだと感じたからだ。

伊坂幸太郎の「魔王」を知っているか? あれは良い作品だが本題は漫画版の方だ。伊坂幸太郎のシリーズから「魔王」を大筋にしつつ「グラスホッパー」の殺し屋とかも一緒くたに出してバトル漫画するというあんまり正気じゃない企画を週刊少年サンデーが結構前にやった。それを全10巻分描ききったのがマチネとソワレの作者である大須賀めぐみだ。これは相当なむちゃくちゃ漫画だった。自分はこれをかなり楽しんだが何を目指して生み出された作品なのかという答えは未だに掴めていない。一番印象に残ったのはスズメバチのスカートの中だ。とはいえそこそこ綺麗に第一部・第二部ともに完結したし、自分はこれで大須賀めぐみを知り魔王の後に連載された「waltz」「VANILLA FICTION」も読んだ。その全部がチョー面白かったのでマチネとソワレを買うのはもはや運命づけられていたと言える。大須賀めぐみ作品のすごいところは研ぎ澄まされていく画力で美形の男とヤクザを描きまくり、それらがバイオレンスの渦に呑み込まれて顔面がグチャグチャになりながらも人間ドラマするというところだ。デビュー作品を知らないのでなんとも言えないが魔王からはずっとその傾向が強い。美形の男が何人か出てきて、抱き合って・・終わる・・・そういう物語なら自分はかくじつに読まずに投げ捨て、新たな戦いを求めてAMAZONという危険な密林へ旅に出ていただろう。演劇の作品というならば尚更その手のエッセンスが感じ取れるはずだ。だが・・マチネとソワレは大須賀めぐみの描いたViolenceスターダムバトル規格に則っているので美形の男だろうがなんだろうが容赦なく殴られるシリアスな世界というわけだ。

演劇と闘争

あらすじに行くとする。主人公は三ツ谷誠という男だ。コイツは若手の舞台俳優で上がり症だが演技に入るとそこそこしっかりやるこだわり派の男としてやってきた。だがこいつの前にはつねに壁が立ちはだかっている。それが三ツ谷御幸・・・誠の兄だ。顔はかなり似ているが御幸は天才的な演技派俳優としてトップを張っており弟の誠は代役などとメディアに悪しざまに言われてしまう有様だ。誠が有名脚本家の次回作主演という大抜擢されても誰も褒めてなんかくれない。この時点で漫画を読んでいるヤツは大体、「誠が兄である御幸を越えるために対決する漫画なんだろうな」と思うはずだ。自分もそうだった。しかしこれには問題があり、それは御幸は既に故人だという点だ。誠はどれだけがんばっても民衆の中で神格化されていく御幸に勝利できず、虚しい・・・自尊心がズタズタになって毎日楽しくない状態だ。こいつは一生救われることがないのか? 自分はリボンシトロンを開けながら目を伏せたがそもそもまだ冒頭だったのでその心配は杞憂だった。ページを進めると誠には一つのチャンスがやってくることがわかったからだ。ある日気づくと誠は御幸が生きているへいこう世界へとたどり着いており、もう一度兄と舞台を掛けて対決するチャンスを得る。自らの価値を世界に示すための大舞台の幕が上がったのだ。

だがそれにはかなりの障害が待ち受けている。御幸が生きている世界では御幸の代わりに誠が死んでいるので誠を知る者など誰もいない・・・つまり後ろ盾も何もないというのが第一の問題だ。そういうリアルな平行世界移動のリスクに取り囲まれた誠はそもそも演劇をできる状況にないことがわかる。誠は偶然であうことになるヤクザの若頭になんとか話を付けて、若頭とチームを組む。そこでやっと社会的なパワ……つまりスマホとかを手に入れて人間としての文化的な生活きばんを得て物語が始まるわけだ。今は簡単に説明したがこれは一巻の肝だ。唐突にヤクザが出てきて失禁を免れないかもしれないので先に言っておいた。もちろんヤクザが出るからにはバイオレンスがグルーヴするがこの辺の話は省いておく。第一巻のお楽しみだからだ。演劇の話だから一巻から舞台に立ってたくさん脚光を浴びる・・・そんなに都合の良い話はこの漫画のどこにも存在しない。マチネとソワレで演劇が見たければ三巻まで買え……自分はそういうスタンスで話を進めていく。もちろんここまで強気なのはこの漫画がかくじつに面白く今かなり爆発しているというレビュアーとしての自信あってのことだ。完全に興が乗ってきたので登場人物しょうかいもする。四人覚えれば大体だいじょうぶなのでラマとかでも読んでいけるはずだ。ラマに演劇の何たるかを理解できるのかを自分は知らないがこれからこの漫画を読むやつらはラマではないと思うのでもんだいないだろう。

誠チーム(三ツ谷誠と世良丞)

画像の右側だ。主人公である誠とヤクザの若頭である世良のタッグだが急造なので序盤はかなりガタガタしている。そもそも誠はこの世界にとっては異邦人なので世良のような立場のある人間が力を貸さないと物語がそもそも始まらないわけだ。マチネとソワレではそういう無茶苦茶が度々起こり物語がグネグネと生き物のように蠢きヤクザとか怪しげなオッサンとかが当然といった顔で出てくるのでつねに警戒しろ。

・三ツ谷誠

画像の右下の赤い髪の奴だ。こいつは元の世界でもけっこう頑張っていたんだが兄の幻影に振り回されて遠くない未来はめつする予感がしていた危険な男で主人公でもある。御幸が生きている世界にたどり着いたことで舞台という一点において兄貴を越えるという長大な目標のために真の戦士となった。顔も美形で芝居も出来てけっこう恵まれていたのに誠が何もまんぞくできなかったのはどうあがいても自尊心を満たすことができないという空虚感からだ。こいつからは表現をする者とくゆうの満たされない自己顕示欲がダダ流しになっておりそこに綺麗さは欠片もない。評価されたいという一心でやっているのでその点においてコイツはかなり信用ができると言ってもいいだろう。誠がだいたい出来上がるのは二巻の後半だ。マチネとソワレは何だかんだ言って別にヤクザ同士の抗争の話とかではないから最終的には心がモノを言う演劇の物語となる。誰にも認められずどん底にいる誠が這い上がり栄光を手に入れるための最低限の下準備がこの漫画の二巻分と言える。そしてその結果を見るのが三巻。全体的にシビアなストーリーとなっているのでカタルシスを得られるまでのハードルは高い。だが・・・買え・・・現代のやつらは忙しくて狭量なので三巻読んでようやくカタルシスの漫画は気に入られないかもしれないがそんなことを考えず自分は「すごくいい」と言いにこの危険なnote地帯へ来た。撃ちたければ撃て。だが、その弾で死ぬ気はない。

・世良丞

画像の右上、ヤクザの若頭だ。こいつは若い頃はヤクザが嫌でがんばって映画監督の道を目指していたがざせつしてヤクザ世襲をした。かなりオラついた容姿でじっさいに汚い無茶をやる度胸と力を兼ね備えた男だがあほではなく、クリエーターという果てのない荒野で力尽きた悲しさを抱えて生きてきている。これはかなりのリアリティを以てかつてクリエイターとして一旗揚げようとしていた者たちへと突き刺さるだろう。我々がいるこの世界にもクリエイターになれずにヤクザの若頭になった者がいるかもしれない・・・そういう想像をさせるだけの本気の描写がこいつにはある。世良は確かな才能を持つ誠に肩入れし、じょじょにだが支援にほんきになっていく。そして・・・こいつの覚悟がさくれつするのが三巻だ。自分は慟哭し、ソファに炭酸飲料を盛大にこぼした。マチネとソワレは兄弟対決が主軸ではあるが、夢破れた者たちが手に汗を握り光を求めて足掻く話なのでこいつも主役と言える。

御幸チーム(三ツ谷御幸と迫中くん)

画像の左側だ。こいつらははっきり言って強烈に個性的なやつらだ。だが演劇が全てのマチネとソワレの世界観の中で最先端を駆けているのは間違いなく、誠はこいつらを実力で潰さなければ自分の価値を世界に示せないので圧倒的な敵として立ちふさがるわけだ。現状(既刊四巻)では誠チームは小物すぎて御幸チームには歯牙にも掛けられない状態だと言ってもいい。

・三ツ谷御幸

画像の左下だ。天才的な役者であり誠が元いた世界では死去していた。役を演じることへの執着心しか見せない怪物であり、良心などはほとんどなさそうだ。目のハイライトすらない。ひと目でヤバいヤツだとわかるだろう。こういうヤツがどんどん出てくるのが大須賀作品であり御幸も例に漏れないわけだ。こいつはあえて共感できない怪物として描かれているふんいきがあり素顔はヴェェールの向こうへと秘されている。こいつにも真の顔があるのか、それともないのか。誠が頑張らないとそれは明らかにならないままこの物語は終焉を迎えることだろう。

・迫中くん

左上のサラリーマンだ。圧倒的に掘り下げがないのでなぜサラリーマンで御幸のマネージャーをしているのかは知らない。マネージャーは自称かもしれない。こいつは御幸を信奉しすぎている。かなり気合が入ったゲイに見えるが今のところ出番が少なすぎてそのパーソナリティはよくわからない現状だ。こいつがよくわからないゲイで終わるのか、真の男として読者の記憶に残るかは完全にマチネとソワレの舵取りに懸かっている。

真の戦士の対決

対決」という言葉は大須賀作品によく出てくる。そもそもは原作版の「魔王」で出てきた言葉だ。対決……実際に二つの陣営がぶつかり合う話の傾向も自分がこれまでの作品を読んできた中では多い。このマチネとソワレでは「演劇とは・・・人間の生きる道とは・・・」みたいな話をウダウダとするわけではなく、誠が自らの自尊心を満たすためだけに生きている兄と対決するという非常にシンプルな1VS1のバトル方式に則って進められる。戦って、勝つ。全てはそのためにある。「男が沢山出てきて美形で顔が近いからBL……BLは読まない……」みたいなつまらないレッテル張りに人生を捧げている腰抜けには到達できない闘争の本質へと迫っていると言えよう。自らの敵と対峙し、勝利するために何が必要か? どう成長へのPROCESSを踏んでゆけばいいのか? マチネとソワレの登場人物たちはそれを追求し続けている。自らの価値を自らが認めるための人生を懸けた戦場へと男たちは踏み出していくのだ。この記事を読んだ者もマチネとソワレのコミックスという新たなフロンティアへのチケットを買い、この大舞台を見に行くべきだ・・・。

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