パチンコ店と劣情

 休業を自粛する要請が自治体から出されるなか、営業を続ける店、特にパチンコ店が槍玉にあがった。ある首長からはじまった店名公表の予告。そして実行。これらの行為の動機には、感染予防という看板の裏に、①市民通報、ゆえに②支持培養が確実にある。
 ①は行為としては正当であるが、そこに妬みや嫉みを感じ取ってしまうのは、私だけだろうか。「わたしたちは自粛しているのに(我慢)、あの人たちはしていない。」(妬み嫉み)。であるならば、これを「劣情」と言おう。②はその劣情を利用した支持培養行為である。「さすが首長、よくやってくれた。行動力がある」と。


 ここで見逃したくないことは、首長の行為は、人々の劣情にお墨付きを与えたことだ。劣情は、劣情として意識化されず、公認の「正義」となるだろう。正義の衆人環視のもと、「見せしめ」られ、休業を余儀なくされる。効果は絶大であった。


 この成功は、劣情の市民をエンパワーメントする。ある者は、休業をしていない店に夜中落書きし、ある者は電話をして、がなりたてる(#自粛警察)。一方、一連の報道によって、劣情していなかった市民の視野にも、自粛に従わない者を「悪」として映し出されることになる。さらに、互いの視野に自分自身が「悪」として映し出されることを恐れるようになる。自分の行為が「悪」となっていないか、敏感となる。劣情の標的とならないように、慎み深くなるだろう(三密ではないのに、レジャー視されそうなものは自粛するようになっている)。

 漫才師の中川家は、都市の場末、地元の人々をおもしろおかしく模写し、笑いをとるネタが多い。多くの人がそのネタを、ある種の既視感と「親しみ」を持って笑っていたはずである(でなければ笑いにならない)。コロナ下において、パチンコに通う人、酒場が居場所な人と、中川家が模写する人物が、私には重なっている。都市の酒場で同じ空間を共有し、楽しい時間を過ごした、あの人々と重なっている。


「感染に気をつけてください」
 私の心の声は届かないだろう。


 しかし、届かないからといって、正義を振りかざし、彼らを指さし、陰湿に攻撃をする「劣情」には、抗議する。パチンコに行く人、酒場が居場所な人、言うことを聞かない人、劣情を利用する治者の言葉を信じる人、そして自分自身を含め全ての人も、私は「愚かな1人1人」だと思う。人間には「愚かに生きる権利」もある。その権利が擁護できなくなる時、ありとあらゆる衆人環視(そしてデジタル監視)が、私たちの自由を、驚くほどに狭めるだろう。そこに、本当に幸福があるだろうか。答えは明らかだと思う。

#パチンコ店 #自粛警察 #エッセイ

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