『noa』第二話「明日はもっと遠くへ行こう」

 壊したいなら壊せばいいじゃないか。
 神がそれを断じたことなど一度もないのだから。
 あるいは、君が可愛らしく謝れば許してくれるかもしれないだろう。(137)

 Scott rhino norn 『没落苑』 より一部抜粋

     *

 マノアに初めて足を踏み入れて、ルヒトがまず一番に感じたことは安堵だった。その次に、喜びが来た。表しようのない歓喜だった。
 空気の変化。あらゆるものを通り抜けてきた細かい空気。その澄んだ感触にルヒトは震えた。夜はもう深い。明かりもない。景色はわからない。それでもルヒトは実感していた。悠久の大地に来たことを。わざわざ運んできた肉塊となった翼竜たちの上にルヒトは座っていた。
 目が慣れてくると、ほんの少し真っ暗い夜の世界に濃淡が浮かび上がってくる。木々の輪郭が見える。木々を飾る葉は真っ白だった。木々の形も少し歪で根の方に行くにつれて異常なふくらみを見せ、上に行くにつれて幹は細く伸びている。ドレスを着飾った女性のような輪郭だった。
「ここはな、冬の夢なんて呼ばれることもある森林地帯さ。本来の呼び方はキリグの森。ある時期になると大量の真っ赤な蝶がこの森を飛び回り、あのおかしな形の木、フラオの木にとまる。その景色があんまりにも素敵な予感を感じさせることからつけられた名だそうだ」カジは積み上げられた翼竜に深く寄りかかっていた。「性に合っていないとよく言われるが、ここは俺も好きな場所だ」
「へえ、朝が楽しみだ」「確かに、似合ってない」
「うるせえよ」「ところでよ、ルヒト。ウィンプを一匹くれないか? ウィンプはマノアでも有名な食材なんだ。臆病な性格だから滅多なことでは遭遇しないが味はピカイチ。特に新鮮な状態で食う竜刺しはもう絶品だからよ」
「早く言ってよ! わかった、じゃあ一匹上げるからその代わりに竜刺しここで作ってくれ」
「お安い御用さ」
 カジは腰のあたりから刃渡り一〇センチほどのナイフを取り出すと積み上げられた翼竜を一匹引き抜いた。ルヒトが転げ落ちる。「いてッ」
「何だルヒト、そんなとこに座ってたのか」わざとらしくカジが言う。「明かりをつけるか」
 カジは簡単な焚火を始め、その後でナイフをふるった。一〇センチのナイフでその何十倍もの大きさのある翼竜を捌く。まずは頭と翼を落とし、その次に手足を落とす。「ここはいい出汁になるぞ。」そして翼竜の身体をひっくり返してお腹を割いて内臓を出す。「これは占い師や呪い師なんかが高く買ってくれる」カジは丁寧に、ルヒトに教えるように翼竜を捌いていった。ルヒトもほんの少しの明かりを頼りに目を凝らしてその様子をジッと見ていた。ルヒトの瞳が、ほんの少し潤む。
「首と尻尾は少し硬いから煮込むとうまい、他の部位は基本的に何やってもうまい! 鱗と皮は油で揚げればいいつまみになる」
 カジは翼竜の腹の部分を薄く一口大に切って、ルヒトが背中からはやした枝葉を皿にして盛り付けた。「なあルヒト。人はマナを得てやっとマノアを冒険できるようになったんだ。ましてやこんなマナは見たことがない。良いのか? こんな使い方」
「こっちは翼と違って仕舞えないんだ。でも流石に捨てるのは忍びなくて。使い道があってよかった」
「そか。ならいいよ」
 ルヒトは竜刺しを一枚手に取る。近くで見るとその肉は余りにも赤々しいものだった。
「ねえ、これほんとに生で食べれるの?」
「ニレが人智の蓋を開いてなかったら数時間後にはあの世行きだな」
「人は、いろんなことを楽しめるようになったってことか」ルヒトは竜刺しを口に運ぶ。「美味いっっ!」
「言ったろ⁉ これがうまいんだよ」
 二人は無我夢中で竜刺しを食べ続け、腹を大きく膨らませた。二人は焚火から少し離れた場所に寝転がる。
 ―――。
「カジ。聞いてもいい」
「ああ、何でも聞け。マノアの先輩だからな、俺は」
「夢ってある?」
「夢か。そんなものを持ってた時期もあったような気がするな」
「今はないってこと?」
「んー。なんて言うんだろうな。夢ってのはあくまで旅路の名前だと思ってる。でも今の俺には、夢以外の旅路の名前がある。だから今の俺に夢はいらない。明日何が起こるのかを俺は知らない。だから明日に行きたい。単純な話だ」
「夢が旅路の名前。良いな、それ」
「ルヒトには夢があるのか?」
「あるよ。noaに行くんだ。サラと二人で」
「noaか‼ そりゃあいいな!」カジは楽しそうに笑う。「お前がnoaを見せてくれる日を楽しみにしてるよ」
 今日は人生で初めて、大樹の大地の外に出た日。なら明日はもっと遠くへ行こう。そう心に据えて、ルヒトは意識を手放した。

 目を覚ますとルヒトは世界の色の薄さに驚いた。白というよりも薄い薄い水色のような世界。薄い桃色も見えないのに、感じる。冬の夢、キリグの森。真っ赤な蝶が舞う時期にまた来たいと心の底から思った。
 そしてルヒトは違和感に気づく。翼竜がいない。カジがいない。あるのは、紙切れだけだった。その紙切れをルヒトは手に取り、見る。
『ウィンプは俺がすべて頂く。あばよクソガキ‼ また会おう!』
 カジが歯を光らせ親指を立てているへたくそなイラストとともにそんなことが書いてあった。
「どこ行きやがったっくそじじいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ‼‼」

 背後の方で何かが途轍もない勢いで迫ってくるのを感じる。
「くそ、読み違えた! ルヒトは早起きするタイプの若者だったか‼ この健康志向め!」
 カジは二匹の翼竜を縄で引きずり、捌いてあった肉は布で包み背中にまん丸と背負っていた。そのせいもあって森林地帯であるキリグの森ではスピードが出せていなかった。「チッ。背に腹は代えられん。後でサクラに内緒で頼んで直してもらうか」
 カジはスピードを一気に上げた。美しい木々たちを軒並みへし折りながら。
「追いつけるかな若者!」「ビダーヤのキャンプまで行っちまえばこっちのもんだ」
「見つけたぞ、くそじじいぃぃぃぃぃぃ‼」
「なにいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ‼」
 声が聞こえる距離に到達していたルヒトを見て、カジはさらにスピードを上げた。すでに通過するだけでも周りの木々が粉々になるほどの速さだった。烈火のごとく暴言を吐きながら突き進んでくるルヒトを見てカジは頬を少し上げた。
「やっぱお前人見知りしてたな‼ そうだと思ってたんだ! お前はマノアにピッタリな性格をしてるってな‼ 自由にやれ。マノアにルールはない! 許す奴と許さない奴がいるだけさ。自分を掲げろっっ!」

     *

 サラはマノアに上陸するなり、青白い発光する四足歩行の生物と出会った。四足歩行でありながら頭の位置はサラの頭上にあり、水色の鬣の一本いっぽんが逞しく生きているように見えた。親しげな印象を受けて、サラは無意識に手を伸ばした。そしてすぐに、その生物は光の粒となって霧散していった。
「サラ、で合ってるかな?」どこからともなく声がした。
 急に霧がかかる。それはどんどん濃くなっていって、小さく収縮し人の輪郭をとった。
 サラは至って穏やかだった。その声色に、一切の悪意がなかったから。
「お迎えにきたよ」
 桃色の髪、花柄のドレスを着飾った女性が現れた。その女性の胸元には不思議なマークの入ったネックレスがあった。

     *

 ビダーヤキャンプ。東のギンヌンカップから最も近いキャンプ。各ギルドのロッジや簡易宿泊施設、酒場などが点在する。そんなキャンプの広場にて、ちょっとした見世物が行われていた。人が集まりヤジが飛び交っている。
 ルヒトはカジに馬乗りになり、こぶしを強く握っていた。
「ま、まてッ! 早まるな! 人殺しになんてなりたくないだろ!」
「初めて人を殺したのは十歳にも満たない頃だった。すでに俺は人を殺している!」
「やめろ‼‼ 事情は知らんがそれは絶対に言っちゃいけないやつだ! ああ! 絶対そうだ! 絶対ダメなやつだ! いや待てそれをこんなふざけたような場でも言えるくらいになっているということは良いことととらえることもできるんじゃないかいやいやいややっぱなんか色々と倫理的に問題があるだろマノアに毒された奴が言うならいいが昨日まで大樹の大地に住んでいた奴が言っていいことじゃないっっっっ!」
「言い残すことはそれだけか」
「待て! まだ言いたいことがある」カジの表情は強く意思の通ったものになった。「ルヒト。短い付き合いだが俺はお前の中に確かな優しさを見たよ。痛みを知っている奴特有の幅がお前にはある。お前の目は先を見据えている。心には強い芯が通っている。人を見る目には自信があるんだ。そんなに、自分を卑下するもんじゃない。お前は、人に誇れる自分を持ってるよ」
「カジ・・・」
 そしてカジは一瞬力の抜けたルヒトを持ち上げその顔面を容赦なく蹴り飛ばした。ルヒトはとんでもない勢いで広場にある建物の壁にめり込んでいく。そしてカジは中指を思いっきり立てて叫んだ。「バカが‼ まだ若いなルヒト! ウィンプは俺のもんだ!!!!」
 ルヒトは少し戸惑った。
 その蹴りには確かな怒りがこもっていたから。
 カジはほんの少しのルヒトの変化を感じ取った。
「ルヒト。自分の背負ってるもんをちゃらけたふりして他人に持たせてみようだなんて、んなダセえこと二度とすんじゃねえぞ」
 ルヒトは恥ずかしさのあまりどうにかなりそうだった。唇を噛み切り、震える拳の中では爪が手のひらに食い込み血が流れていた。
 そんな中で突然現れた人影がカジの頭を思いっきり蹴り飛ばし、カジはルヒトの真横を一瞬にして通り過ぎていった。
「なんでええっっ――――⁉」


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