見出し画像

ushio

遠くで船の汽笛がなった。田舎で人がいないからか、はたまた平日の昼間だからか、閑かな港には人がすくない。海は午後三時の太陽を浴びて、嬉しそうにきらきらと光っている。春の気温と潮のにおいとが混ざりあった、心地のいい陽気。一年に数日だけ僕たちの前に訪れる、「一年じゅうこのくらいの天気だったらな」という時空間がそこにはあった。初めて来た街だから、舞い上がってそう思うだけなのかもしれない。

「アカイさん、ですか?」

父子らしき二人の姿。一人は中年の男性で、髪は坊主に近いくらいの短さ。中年特有のいやな脂っこさはなく、肌は健康的な小麦色に焼け、筋肉質であることが白いTシャツごしにもわかる。それでもおそらく若く見られないであろうと想像がつくのは、顔に刻まれた皺が、年輪のようにその齢をたしかにしているからだ。もう一人は、小学校高学年くらいの男の子。白地に黒のボーダーのTシャツに、下はジーンズをはいている。容姿はあまり隣の父親と似ておらず、むしろ対照的といってよかった。まだ体はがっちりしてきておらず、全体の線が細い。伏しがちな目を覆うまつ毛が長かった。

「はい、この度取材を担当させていただきます、アカイといいます。よろしくお願いいたします。」
「あらためまして、関といいます。私の名前がイサナで、こっちが息子のマコト。ごんべんに京都の京って書いて、諒いいます。どうぞよろしくお願いします。ほれ、マコトも挨拶せえ。」

マコトがちょこんと頭をさげた。挨拶はない。目線はこちらから逸らされたままで、すぐ手前の地面に向かってなげやりに落ちていく。

「いや、すみませんね。なにせムズカシイ年ごろでして・・・。それじゃ、ひとまずうちまで向かいましょうか。」

僕がいやで合わせたくない、というよりは、父親の前だと合わせたくない、ということなのかもしれない。


街の名は和歌山県太地町。東京から飛行機で2時間と、リムジンバスで1時間のこの街は、古式捕鯨発祥の地とされ、現在まで捕鯨やイルカの追い込み漁が受け継がれてきた。港が街の中心であり、それを取り囲むようにして住宅や市街地が広がっている。さらにそれを取り囲むように街の東部は山に覆われ、南部はリアス海岸が伸びている。この雄大な山々と海岸とがかえって人間が狩猟や農耕を営むことをはばみ、人々は太地浦でのクジラの突き銛漁に従事するようになったという。

「イサナさん、あれは・・・」
外国人と思しき数人の団体が歩いているのが見える。ある者はドクロマークの旗をもち、ある者はカメラを首から下げていた。全員がお揃いの黒いTシャツを着て、険しい表情をしている。通りすぎるときに目が合って、少しどきっとした。

「抗議団体の人たちですね。いろんな団体来てるけど、あの人らがいちばん規模おおきいかな。何日も何日も居座るもんだから、かえってすごいと思ってまいますね。あの映画が公開して以来、ずっとこんな調子です。」

二年前、この街の伝統である捕鯨および食鯨文化に反対して、その残虐性を訴える映画が海外で公開された。それ以来、太地町には国内外から動物愛護団体が押し寄せ、社会問題になっている。今回の取材は、そんな街に暮らす人々の生活をよりチュウリツ的な立場から、もっと食文化というテーマに沿って映そう、というものだった。


「せまい家ですけど、どうぞおあがりください」

家は木造2階建てで、港から車で十五分ほどの住宅街の一角にあった。家の大きさのわりに、庭がとても広かった。すぐ裏手には山があり、それもこの家がもっているのだという。

「ちょっと早いですけど、今日はもう晩ご飯にしましょうか。明日の朝も早いことですし。ちょうど隣組のひとからクジラの赤身もらったんで、ぜひ召し上がってください。」
「ありがとうございます。ぜひ、いただきます。」
三十分ばかりして、料理が食卓に運ばれてきた。刺身にご飯、それとみそ汁までついている。イサナはビールを口切りいっぱいまできれいに注いで、食卓にコップをふたつ置いた。

「お酒まで用意していただいて、、、申し訳ありません」
「とんでもない!瓶のケースごともらったもんで。一人じゃ飲みきれませんから」

よく見たら、コップだけでなく料理も二つしか用意されていない。

「あれ、マコトくんは食べないんですか?」
「それなんですけど、最近クジラをあんま食べなくなってもうて・・・
今日はたぶん、奥のテーブルで昨日の余り物かなんか食べるんやと思います。」

引き戸をはさんだお勝手のほうから、電子レンジを操作するピピ、という音がきこえる。ほどなくして、ゴー…という皿が回っているときの音に切り替わった。

「それは心配ですね。」
「うーん、あの映画の影響なんですかね。私はみせたことないし、周りにみせるようなひとは、おらんと思うんですけど」

テレビからは、東京ドームでの巨人対DeNAの試合が流れていた。四回裏、マウンドに立つDeNAピッチャーのキャップのなかで、ちいさな星が光っている。

「この肉は、マッコウやなくてゴンドウいうクジラの赤身です。ふつう市場によう出回ってるのはマッコウばっかりなんですけど、太地の人は、クセの強いゴンドウのがうまいっちいうて、よう食べます。生姜といっしょに食べると、臭みも消えてうまいですよ。」

ゴンドウの赤身は蛍光灯の光を受け、つやつやと輝いている。見た目は馬肉に近く黒みがかった赤をしていて、血の色をおもわせた。まさしく捕れたての生の刺身は、臭みも強いぶんしっかりと磯の香りが感じられる。歯ごたえが良い。子どもの頃は好きになれなかっただろうが、この歳になって食べると、ハマってしまいそうなクセを味わえる。

「すごく美味しいです!」
「お口にあってよかった。なかなか合わないひともおるけど、単に食わず嫌いっていうひとも、多いと思いますね。」
「うん、この歳になるまで食べてこなかったの、ちょっともったいなかったなと思いました」
「本当ですか?クジラのこと褒められると、やっぱちょっと照れてまいますね。この街のクジラはわたしが育てたわけでも、なんでもないんやけど」

イサナの緊張がすこしほどけた気がする。みそ汁のなかの味噌が沈殿してしまったので、箸で溶かしてひとくち啜る。

「いまはこの家には、マコトくんと二人で住んでるんですか?」

「ええ、父はマコトが生まれる前にもう他界してしまいまして。母は存命なんですが、からだも頭も、すっかり弱ってきてしもうて、いまは隣町の施設のほうにあずかってもらってます。母が施設にあずけられて、この家に住む人がいない、っていうタイミングで実家に戻ってきたんです。マコトが小学校四年生になるときかな。俺、こう見えて二〇代の頃まで大阪でサラリーマンしとったんですよ。」

「ほんとうですか。」

「ええ。堺のほうにアパート借りて、当時妻とマコトと、三人で住んでましたね。」

イサナはポケットからおもむろにハイライトのレギュラーを取り出し、二本の指でパッケージの頭をぽんぽんと叩くと、一本だけ抜いて先端にライターで火をつけた。

「不躾な質問かもわかりませんが、奥様は現在どうなさってるんですか?」

「妻はがんで死んじゃいました。あの子を身ごもって、そのときに子宮頸がんが見つかって。どうしよかってさんざ話したんですけど、あの子を産んで、それから手術して切除したんですよね。でもやっぱ、いろんなとこ転移してもうて、マコトが5歳のときに亡くなりました。」

風のない部屋のなかで、天井から垂れた電灯の紐と平行するようにして、タバコの煙が一直線に頭上へのぼっていく。イサナの目の回りはほんのりと赤くなっていた。

「そうでしたか・・・。ほんとうに不躾な質問をしてしまい、申し訳ありません。」

「とんでもないとんでもない。これも取材のうちでしょう。それで、母体の影響があったのかわかりませんが、マコトは体がけっこう弱くて、喘息の発作もっとったんです。空気のきれいなとこ住ましてあげたいなおもて、そしたらちょうどこの家も空いてしまったので、移ってきたいう感じですね。喘息のほうは、やっぱりだいぶよくなりました。嫁さんの写真、そこに置いてありますよ。」

部屋のひだり後ろの角、へその高さくらいの棚のうえに、写真立てがひとつ置いてある。器量のいい顔立ちをしたひとだ。長いまつ毛に華奢なからだで、マコトくんはお母さんに似たんだな、とその時に納得がいった。

「アカイさんね、おれほんと、奥さんのことはもちろん可哀想やけど、マコトが、ほんとに申し訳ないと思ってね? ・・・喘息なおそうって、こっちの都合で越してきてみたら、知らないガイジンさんが街をうろうろしてて。あの子、この春休みが明けたら、次の四月から中学生になるんです。でもここには中学校がないから、隣町まで通わなきゃいけんくて、また知らない人たちと、今度は太地の人間としてかかわらないけん。授業参観とかも、ほとんどいってやれた試しもない。いちおう、親戚が近くに住んでて、家にひとりでいてもなんかあったらすぐに駆けつけてくれるんですけど、おれが夜おそくまで帰れん日は、さみしいやろうなって・・・」

イサナはため息をつくようにして煙をはき出すと寝転がり、頭に巻いていたタオルで顔を覆った。ビールのコップにはまだビールが残ったままで、小麦色の液体のなかで小さな泡たちが、浮かんでは消えてを繰り返していた。その日の試合は、九回の表で打者三人を打ち取り、そのまま巨人が二―〇でDeNAから勝利をおさめた。


日の出前、ライトをおでこにつけ、胴長を履いて家を出る。港に着くと、人がわらわらと集まりはじめていた。一日で港がもっともにぎわうのは、おそらくこの時間なのだろう。

「今からいくのは、イルカの追い込みですか?」
「いや、今日僕らが行くんは、こっからすぐの定置網です。この季節は、サワラとかですね。イルカの追い込みは、あっちの船。」

十隻ほどの船が連なって、沖の方へと走っていく。白波の立つザザーという音が、見えない波紋とともに耳に伝わってくる。

「だいたい三〇キロくらいさきの沖合まで行きますね。昔はもっとたくさんの船でいっとったんですけど、最近は捕獲できる枠が、限られてまして。アポは取ってあるんで、明日にでもあっちに同行できますよ。じゃ、俺たちもそろそろいきましょうか。」
「はい、よろしくお願いします。」

十五メートルほどの船に乗り込む。船の腹の部分には、力強い字で「大洋丸」と書かれている。
「古いけど、けっこうしっかりしてるでしょ。これは親父から継いだ船なんです。親父の名前が一文字でヒロシいうんで、そこからとって大洋丸。いまのマコトくらいの年から、もっと早いか、小学校5年生くらいから、よく親父に連れられて、引き網を手伝わされたもんです。終わってから着替えて学校いくんですけど、ぜんぜん匂いが取れんのですよ。」

船は朝日を待つ海外線に向かい走り出した。さっきまでいた港がどんどんと小さくなっていく。まだ家々に灯りはついていない。

「イサナさんは、あの映画についてどう思ってますか?」
「うーん、自分たちのしてきたことが、一部の人たちから、後ろ指さされるようなことやと思ってなかったんで、けっこう衝撃でしたね。当たり前のことやったので。いろんな考えあってもいいとは思うんですけどね。ただ、」

「ただ?」

「その映画を撮影をしてる時期だったんですけど、入り江に男女の二人組が立ってて、海の方を眺めてるんですね。何だろうと思って近くに寄ったら、ガイジンさんで、女性のほうがなんか知らんけど泣いてるんです。海にはイルカもクジラもいないのに。それを別のひとがカメラで撮ってる。変だなって思ったんですけど、声はかけずに通り過ぎたんです。その後、公開された映画観たんですけど、イルカの赤ちゃんが人の手で引き揚げられてる、どこかほかの場所の映像と、その女のひとが泣いてる映像がつなぎあわされてました。」

「それって、捏造ってことじゃないですか」

「いちから十までそうやないから、否定はできんのかもしれんけど・・ なんなんでしょうね。僕はあの時、声をかけるべきやったんですかね」

未明の海はどこまでも静かだった。遠くのほうで、イルカが何匹かはねるのが見えた。

「あ、もうそろそろ着きますよ。」
網のなかにはサワラが二十匹ひきほど、それにタイやイカ、小魚がたくさんかかっていた。甲板のうえでぴちぴちとサワラが跳ねる。それを黙々とカゴにつめていく。イサナの逞しい腕にからめとられ、次々と魚たちはカゴに閉じ込められていった。太陽が日の出のタイミングを見計らうのが、水平線にただよいだした光の黄色い色でわかった。


「そんじゃ、俺が帰ってくるまでよろしくお願いします。マコト、アカイさんに迷惑かけんといてな。」
漁から帰り、朝市に出たあと、イサナは漁協の話し合いに出席するといって昼過ぎに家を出た。昼食はマコトに案内してもらい、道の駅の食堂まで行って食べる、ということになった。

「マコトくん、どれ食べたい?」
「え、いいんですか。」
背の高い防波堤沿いに県道を進み、僕らは道の駅に着いた。初めて聞いたマコトの声は思ったより大人びていたが、まだ声変わりはしてないらしい。しきりに爪を噛んでいて、指の先にある爪は本来の半分ほどの長さになっていた。

「遠慮しないでいいよ。お父さんからもらった分は、お小遣いにしちゃっていいからさ。」
「じゃあ、カレーライス。」
食券を買ってテーブルに着く。先に届いたのはマコトのカレーライスのほうだった。ルウが海、ライスがクジラを模していて、お皿の上にぽっこりとした曲線のライスが盛られていた。

「マコトくんは、クジラはあんまり好きじゃない?」
「うん。」
遅れてクジラのから揚げ定食が届いた。給食で食べて以来かもしれない。当時のことを思うと懐かしくもあり、大人になってからの自分が食べているということが、新鮮でもあった。

「そっか。なにか好きなものはある?スポーツとか、ゲームとか。」

「サッカーが好きです。見る専やけど。」

「ぼく、中高サッカー部。」

「ほんとですか?」

「うん、ずっとベンチだったけどね。」

「国立競技場って、やっぱ大きいですか?」

「うん、すごいおっきい。マコトくんの家、30個くらい入っちゃうんじゃないかな?今度、おじさんが連れてってあげるよ。」

「え、ほんと!?」

はじめてマコトと目線があった。食べすすめていたスプーンを皿のうえにおいて、両方の手のひらをテーブルのうえに置いて軽く身を乗り出す。バン、という小さな音がして、ささくれた指のすき間から微かな風がおこった。

「うん、約束だ。」

家に帰ってから、納屋のなかにしまってあったサッカーボールを引っ張りだし、庭で二人でボールを蹴りあうことにした。久しぶりのサッカーボールは思っていたより大きく、ひと蹴りごとに伝わるボールの感触が硬い。
「見るだけって言ってたけど、サッカーはやらないの?」
「もともとお医者さんにひかえるように言われてたから。でも、中学生になったら、ちょっとやってみよかな。」
「うん、おじさんも応援してる。」
「ありがとうございます」

ボールを蹴るたびに、キーンという小さな金属音がして、それが二人の足元から交互に鳴る。遠くから、五時のチャイムの音が聴こえてくる。童謡の『海』のメロディが、街をゆっくりと包んでいく。夕日に照らされた二人の影が、土色に枯れた芝のうえで交差していた。


固定電話の着信音が廊下から漏れてくる。録画したサッカーの国際親善試合を観ていたマコトが、小走りで電話を取りにいった。しかし、その後しばらく経っても戻ってこない。気になって廊下に出る。

「マコト君、どうしたの?大丈夫?」
マコトは受話器を持って立ったまま、すすり泣きの声を漏らしている。

「・・・来週、ケンちゃんいう大阪の頃の友達が、太地に遊びにくるいうてたんですけど・・・ お母さんに、行かんほうがええって言われて、やっぱ、来れへんって・・・」

その時、玄関の引き戸が開いた。イサナがちょうどかえってきた。一杯ひっかけてきたのか、顔が紅潮し、全体的に体のちからが抜けている。
「すみません、遅うなりました。いやあ、父の知り合いの漁師さんにつかまってしもて・・・え、マコト?おまえ、なんで泣いとるのや」
イサナは困った表情で顔をこちらに見合わせてくる。

「父ちゃん」
それまで緩んでいたイサナの全身の筋肉が、きゅっと縮むのが動きでわかった。もしかしたら、マコトから話しかけるのは久しぶりのことなのかもしれない。

「なんで、なんでこんなにウチは全部まちがってるん?・・・こっち越してきたら、クジラ取るんは、間違ってるっていわれて・・・引っ越さな、こんなことにはならんかったやん。・・・でも、父ちゃんは、俺の喘息なおそういうて、こっち引っ越して、毎日毎日、暗いうちから漁に出ててくれてて・・・おれ、くやしい。くやしいけど、どうしたら、いいか、わからへん」
マコトが嗚咽まじりの声で言う。肩で呼吸をとりながら、膿を掻き出すように、その細い体のなかにある言葉をすべてしぼりつくそうとするかのように、その声をイサナに飛ばしていた。拳は力いっぱい握られ、小刻みに震えている。

「マコト、お前・・・」

「ほんとは、クジラかて美味いし、食べたいけど、どうしても、食べる気に、ならへんし、中学に上がるんも、知らん人らから、なんて、言われるか、嫌なことばっかで、頭いっぱいで、おれ、苦しい。でも、父ちゃんは、毎日働いてくれとるから、そんなん言いたくないから、」

「マコトっ」
イサナの目から涙がこぼれだす。こぼれてはそれを太い腕で拭った。イサナがマコトに駆け寄り、マコトを力いっぱい抱いた。太い指がマコトの頭をおおった。

「ごめん、ごめん、マコト・・・ 二人っきりにして、ごめん」

日が落ちきって暗くなった廊下に、父子の泣き声が響ている。つけっぱなしのテレビからは、日本のゴールに沸くスタジアムの歓声が流れていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?