「勉強はできるけど仕事ができない」-ASD当事者の1人としての考察

 「勉強はできるけど仕事ができない」ーこれは発達障害の1つであるASD(旧アスペルガー障害)に言われる「特徴」の1つです。実際に言われた方も少なくないのではないでしょうか。私は直接的に言われたことはありませんが、その場の状況や人の言動からそう考えることはあります。でも、「勉強はできるけど仕事ができない」とは具体的には一体何なのでしょうか。よく考えてみると失礼な一言ですが、なぜこんな発言が出てきてしまうのでしょうか。
 仕事とは「目上の人の言うとおりにすればいい」ことであり、逆に「仕事ができない」ということは「言うとおりにできない」ということだと思います。後者の人は「勉強ができる」ので、上記のような発言が出てきたのでしょう。それは「勉強はできるけど人の言うとおりできない」ということでもあります。突き詰めれば、「勉強して賢くなって権利や責任を主張して社会を知るようになったら困る」ということになります。ここでの世界だけが「社会」であり、「社会は厳しい」という認識になってもらいたいのです。ただ、この世界だけを経験して「社会」と考えていいかに関しては、私には常に疑問が残ります。
 上下関係があっても構いませんが、それならば目上の人は仕事の内容やその理由を具体的に分かりやすく説明できるようにしてもらいたいものです。要するに、目上の人が「空気を読む」や「察する」等を禁止して「仕事ができる」ように導けばいいという話です。そうすれば目上の人は下の立場に「威張って」いられますし、下の立場は意欲的に仕事をするでしょう。「威張って」とは皮肉な表現かもしれませんが、目上の人がそのぐらいの仕事経験や知識を持って目を注がないと、下の立場はすぐに辞めるかハラスメントだと訴えたり等するでしょう。
 以上のように書くのは、私がASD当事者の1人であり、大学(臨床心理)や専門学校(精神保健福祉)を卒業しているからかもしれません。理屈っぽい人だなあと感じるかもしれません。それなら目上の人が私と同等、または私を超える「実力」を示せればいいのです。そうすれば「勉強して賢くなって権利や責任を主張して社会を知るようになったら困る」ことはなくなります。そこに学歴や男女は関係ありません。ただし、私のような下の立場が「納得」しないといけません。私は目上の人ということで言えば男女両方見ていますが、「実力」が伴わない「威張り」方をされる方も少なくないと考えています。「納得」させるだけの「実力」がないからそれを補うために「暴力」(特に言葉によるもの)を使って「支配」しようとするとさえ考えています。確かに目上の人が「実力」を付けるのは大変なことではあります。でも、ないことを認めて「実力」を着実につければいいだけの話です。ないことを認めず、「暴力」を使ってしまったら下の立場に面目が立ちません。
 「勉強はできるけど仕事ができない」ーこれはそう言われた本人ではなく、その上の立場の人(目上の人)の問題です。「仕事ができる」ように導いていかないと、日本の労働市場または日本の将来に暗い影を落とすことになるでしょう。そういう危機感は下の立場ではなく、目上の人が強く抱くものであり、「勉強」を活かす方法を考えてもらわないといけません。
 かなり手厳しいことを書いたかもしれませんが、「勉強はできるけど仕事ができない」という差別的言説は消えてほしいと考えているのでそうしました。
 ここまで読んでいただいた方に深く感謝申し上げます。

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