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「美しさ」を諦められない



自分がなぜ容姿に拘っているのか知りたくて、いろんな書籍に目を通したり自分の感情をSNSに書き留めたりしていたんだけど、ちょっと先が長すぎることに気付いたので中間報告的な形で文章に残しておこうと思う。何を知りたくて自分をどうしたいのか見失いそうなので。かなり乱文。




きっかけ

何かがおかしいと気付いた発端は、買い物に行こうと一人で街を歩いていたとき。いつも通りメイクをして髪をセットして電車に乗ってきた、いつも通りの休日。
ふと目に入ったショップの鏡に映る自分の醜さに、わたしは泣いた。
顔の輪郭や髪の乱れ、シワやたるみ、全体を通して感じられる垢ぬけなさと、「何か」に憧れてなろうとするけど空回る身分不相応でちぐはぐな出で立ち。恥ずかしいと思った。こんな姿を晒してよくいままで生きてきたなと自分自身を憎んだ。
その日は何も買わずいろんな店の鏡を見て回ったのを憶えている。
「きっと照明がよくないんだ」「自然光だからだ」「この鏡だからこんなふうに見えるんだ」
百貨店のトイレや雑貨屋の小さな手鏡、ビルのガラス、自販機の商品パネル、自分が写るものを全て目で追って醜い自分が写るたびに絶望した「こんなはずじゃない」って。ようやく見つけた自分が“まだまし”に見える鏡の前で心を落ち着かせて、美容外科の予約をして一時的に自分を納得させた。

多少の容姿の悩みはきっとだれにでもあるはずだ。鼻が気に入らないとか、もっと締まった身体なら、とか。
毎日鏡を見る人なら分かると思うけど、「顔の調子が悪い日」ってあって、きっと健康的に悩んでる人はそんな日にも「うわ調子悪い日だ」そう思って生きていられるんじゃないか。あの時の私は、ただそれだけのことで「わたしに価値なんてない」と思ってしまうほどに「容姿」というものに囚われていた。



いつからそうなったのか


小さい頃は自分の顔なんて気にしてなかったはずだ。記憶のある限り12歳くらいまでは。
目つきが悪いと言われたり唇の形を指摘されたりした時のことは未だに景色まではっきり覚えているけど、それでも、いついかなる時も鏡が手放せなかったり、顔が嫌だからといって泣くこともなかった。
常に顔を気にするようになったのはメイクに出会ってからだろうか。
中学生の頃、一緒に行動していた友人にいわゆるギャルっぽい子がいて、薦められたわけでもなくわたしも自然とメイクをするようになった。
ファンデーションを初めて塗ったとき、くすみのない自分の肌を綺麗だと思った。肌が整うと目鼻立ちが目立って顔がはっきりする、眉を整えてて髪をセットすればもっと良くなる。周囲の人間はメイク後のわたしを良く褒めた。わたしも化粧後の自分の顔が好きになった。

綺麗にして外に出ると、いいことがたくさん起きた。
小さな学校という集団では、少し小綺麗にしてるだけで憧れの眼差しを向けられるし、困ったときは誰かが私の為に動いてくれた。何もしなくても人が集まるし、何もしてなくても褒められた。
若い女性であることの特権も使った。食事に行けば誰かがお金を払ってくれるし、わがままを言っても従ってついてくる男の人が多かった。同性からの嫉妬も喜びに変わった。何もしていないのに寄ってくる異性とそれを妬む同性はわたしの魅力を肯定する存在でしかないと思っていた。
この諸体験によって、「美しさ」の価値はわたしにとってどんどん絶対的なものになっていった。


けれどずっとぼんやりした苦しさが心の中にあった。
わたしはメイク後の自分を好きになるほど、メイク前の自分がひどく醜いと思うようになっていた。
綺麗な自分が良い扱いを受けるほど、メイクをしてない自分には価値がない、誰も振り向かないと思った。
「メイクをするのは自分を好きになるため」ありのままの自分を好きになれないのはなぜ?
「綺麗になった自分を見ると気持ちが上がる」綺麗になる前のわたしはずっと醜かった?
綺麗にしようとすればするほど、生まれ持った形を失っていく
本当の形を隠して作り替えないと好きになれない自分って何?




ずっと憧れてるのは「生まれつき綺麗な人間」


メイクをしなくても綺麗で、髪形はどんなふうにしてもキマるし、写真を撮られるときに怯えることもない。鏡も見ないし自分がどんな顔をして笑っているかも気にならない人。「本当の自分」を隠さなくていい人。生まれたときからずっと綺麗で、綺麗じゃない瞬間を知らないし知る必要のない人。ありのままで綺麗な人。何もしなくても自分を愛せる人。

わたしはそれになれない。
「生まれ持っての素質」と「対価と覚悟」が無い。手を尽くしてきたからこそ分かる自分の限界。生まれ持っての変えることの出来ない骨格。医学的に手を加えられない部位。変えられるけど代償として傷跡が残る部位。変えられはするけど膨大な時間と金が必要な部位。
一人で生計を立てるようになって、将来の生活も含めて一度立ち止まって考えた、「わたしはそのパーツにそれだけの金銭をかけるほどの覚悟があるのか」「仕事を捨てて家族と縁を切ってまで得たいものなのか」「この行為を続けることがわたしの満足する人生なのか」

わたしはもうやめたい。
この終わりもないし理想にも届かないことが分かってる無謀な勝負から降りたい。

それなのにわたしはまだ、小さなシミを消すのに何万円もかけて、誰も気付いてないような瞬間まで背筋を伸ばして、髪がまとまらないだけで憂鬱になって、美人の隣に立つたびに恥ずかしくなって俯いている。どうして「美しさ」を諦められないのか。


諦めたいから、いろんな意見を調べて自分を納得させようと思った。
身体醜形障害のことや、外見が与える印象のこと、女性に特に強く課せられるルッキズムのこと…。

外見の美しさは多種多様で複合的なものであるけど、確かに共通性はあるし一定の利益を得ることは出来る。
しかし外見の美しさと幸福度は比例しない。その思い込みはメディアが長い時間をかけて刷り込み続けてきた「美しい外見と細身であることは成功と幸福に不可欠である」という文化的図式による影響。
実際、身体への満足度は個人の自尊感情によるところが大きく、そのような人は容姿以外のポイントで勝負しようと考えられる。
人前でなければ自分の醜さが気にならない場合は対人恐怖症に含まれる醜形恐怖障害とも考えられる。(「こんな容姿では相手にされない」「受け入れてもらえない」という社会的恐れ)
醜形恐怖患者は容姿を「より優れていることの証明」として捉えがちだが、本質は「愛されたい」「すばらしいと思われたい」という欲求によるもの。容姿以外での行動によって周囲からの評価を得て、自尊感情が高まることによって恐怖症状が軽減する。


ここまで「やめたい」気持ちを後押しする情報を知っても、わたしは進化心理学や美学にも手を広げて美しさへの憧れと執着を肯定する理由を探そうとしている。

どれだけ理屈を並べても、「綺麗な人間」への憧れを捨てられない。
綺麗な人を見てるだけじゃ満足できない。なんでわたしは綺麗じゃないのって悲しくなる。
「他人の外見なんてどうでもいい」って言うと反ルッキズムに捉えられるけど、他人の容姿の良し悪しなんかどうだっていいだけなんだ、彼らはわたしじゃないから。見た目で扱いを変える人間なんか嫌いだし、誰かと並んだ時に「一番きれいだ」って言われるのには腹が立つ。
でもそう言いながら、わたしは「綺麗」を手放せない。自分は綺麗な人間でいたいし、そう扱われたい。
綺麗なものを見た人間の「視線」を浴びたい。集団の中でひときわ輝き目を引く、「美しい人間」になりたい。
わたしは差別主義者なんだろうか?
執拗に憧れる、あの人間たちのようになりたいと思うこの気持ちが。



自尊心の問題


自分自身が許せないんだ。「綺麗」を取ったあとに残るありのままの自分に価値がないと思うから。
アロマンティック・アセクシャルであることにいくら誇りを持てども、恋人を持たない人間、結婚をしない人間への社会からの風当たりは強い。「美しさ」の鎧はいらない詮索を避け不躾な発言を許さない。
スキゾイド、スキゾタイパル・パーソナリティ、相槌を間違えても、臨んだ答えをあげられなくても、綺麗な人間でいればそこにいるだけで許されると思った。
仕事もうまくできない、人付き合いもうまくできない、誰かに強く必要とされたいとも思わない、けれど浅い交流は持っていたい、というワガママをかなえるための手段が、手ごろな「美しさ」だったから手に入れようと思った。浅い人付き合いには使い勝手が良かった。
人より生まれつき足りない分を、外見っていう絶対的基準のあるスキルで埋めようと思った。

じゃあその中身は変えられないのか?
容姿以外での成功体験を得られないのか?
結局どうしたってここの問題に突き当たる。
美しさへの憧れを捨てられないまま縋りつづけたとして、ずっと残り続ける課題。

セクシャリティやパーソナリティを隠蓑にしたところで解決はしない。「わたしはこれでいい」と思える何かを、他人もしくは自分に認められる体験がなければこの状況からは抜け出せない。
いま「容姿」という1本の柱に頼り切りになっているわたしの自尊心を、対人関係や仕事、作品作りなど細くてもいいから少しずつ柱を増やしていく。荷重を分散させていつか「容姿」の柱がなくても建っていられるように。少しずつ。それしかない。

このnoteだって、ツイッターのアカウントを作ったことだって、SNS上で人と会話したことだって、立派な進歩だ。すこしずつやっていくしかない。
まだ「美しさ」に憧れるのをやめられなくても、きっと無理に引き離さなくてもいい。
たくさん出来ることを増やすために、何かに挑戦する時に怖くないよう、「美しさ」の鎧はまだ脱がなくてもいい。お守りとして持っておこう。
いつかもう大丈夫だってなったときに鎧が邪魔だと思って、自分で脱ぎ捨てられたら、それでいい。





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