儚い闘い
私の母は多発性骨髄腫という血液の癌であった。
母が入院中、病室で主人に『頼みましたよ』って言っていたらしい。
私はそんな会話が二人の間で成されていた事は、全く知りませんでした。
母が多発性骨髄腫の末期であった事は、本人には告知していませんでした。
主治医からも告知しない方がいいと言われていました。
頭の骨(頭蓋骨)まで溶け出していたのです。
ある日母が『もう家には帰れないのかな……』っていきなり言い出しました。
私は心が動揺してしまい狼狽えました。
『お母さん、何言ってるの、先生はご飯が食べられるようになったら退院してもいいって言ってたでしょ!』『何でそんな事言うの…』
そう応えながら、涙が止まらなくなってしまいました。どうしても止まらなかった。
母は泣いている私に『ごめん、ごめん』と繰り返しいい続け『なんでこんな話しになっちゃったんだろね』って私を宥めるように言いました。
失敗だ……母は気が付いてしまったかも知れない……失敗してしまった。
ずっと帰れるからね!ってそれまでにも何度も繰り返して言っていたのに、失敗した……
家に帰れる希望を最後まで持っていて欲しかったのに、
私の大きなミスである。
あの場所、大学病院で色んなことがあったな……
母は食事が喉を通らないと言い出して、それからいつも通っている大学病院で原因が分かる迄の道のりは、中々大変だった。
主治医がビタミンDが血液の中で大量に蓄積されていた事を突き止めて、それから救急からの入院と言う、主治医の苦肉の策だった。
自宅に主治医から電話がかかって来て『今すぐ救急外来へ来て下さい。そのまま入院してもらいますからその用意もして、救急の方には話していますから、兎に角すぐにいらしゃい』と言われ、少し戸惑いながらもそのまま慌ただしく病院へ向かった。
当時も今も、大学病院への入院を待っている患者は多い。主治医の横から滑り込む様な策であったように思う。
検査中は同部屋の女性患者からのイジメとかがありました。
その女性患者は長い間、大学病院への入院を待っていた様で、母のように横すべり的な入院は腹がたったようだった。
私は個室をお願いしたのですが、検査中はできないと言われてしまいました。
それから1ヶ月の検査が続き、多発性骨髄腫が判明した。
病気が確定した時に再度個室をお願いしてやっとその同室の女性患者から離れる事が出来ました。 がっ……
その患者、母の個室までやって来ました。
看護師さんに部屋に帰るように促されるしまつでした。
その女性患者その後、肝臓からくる認知が始まっていたようでした。
入院中は母を守るのに私も必死だったかな……
今、思い起こせばそんな感じでした。
入院中に脳梗塞も併発して右半身不随その上言語も不自由になり、抗がん剤も使えなくなりました。
その間の出来事は少し『ちょっと違うんだよね』にも記事にしています。
母の呼吸が弱くなると呼吸をするお薬を、心臓の動きが弱くなると心臓を動かすお薬をと、点滴に混ぜて……
その度に母は少し持ちなおして……
でも、自分の意思を伝える事が殆ど出来なくなって来ていました。
熱が37°C台で保冷剤を身体のあちこちに置かれてしまい。
まだお喋りが出来る時から、寒い寒いと母はそれを自分で外していました。
母は解熱剤は副作用が出るので使えませんでした。
ある日の朝、脳梗塞になってから母の身体から7個の保冷剤がつけられているのを発見しました。
思いあまって担当の研修医に止めるようにお願いしました。
担当の研修医の先生は、身体が弱っている患者に冷やすのは、返って良くないと、看護師には言っておきますと言われましたが、その後は、180度変わるお返事で、看護師さんもそれなりの処置なのでと……
その後、上の担当医にも何とかして欲しいと訴えました。先生のお返事は……
『それはな……朝 そおーっと外しとき』だった。誰も看護師さんには逆らえないんだなぁ〜って言うのが私の感想です。
しかたなく、看護師長に直接談判しました。
思いあまって、『考えながら看護して下さっているのは分かりますが、これは患者からしてみれば、虐待です。止めて頂きたい』と伝えました。
看護師長は分かりました。とは仰いましたが改善はなかなか難しかった。マニュアル通りにしか動けない看護師さんが多いのかも知れません。
何度かそれなりに山をこえる時、その都度、人工呼吸器のお話を主治医からされました。
母は無理な延命を望んではいなかったので、何度もお断りしました。
その選択は正しかったと思っています。
母が危篤の時
尿が止まり、母の身体は輸液でパンパンに腫れあがり、今にも皮膚から吹き出しそうでした。
私は輸液を止めるように主治医にお願いしました。
主治医は止める事はできないが、速度をゆっくりにしましょうと……
こんなになるまで治療?なのか……
辛い思いを母にさせた私の選択が間違っていた。
治して貰いたい一心だったけど……
いつだったか……
母担当の研修医から私に『お母さんは医療関係者ですか?』と尋ねてきた時がありました。
母は病室で『足の裏に水が溜まる様じゃ、私も終わりだ』って言っていた事があったそうです。
私は思わず笑ってしまいました。母らしいかな……
研修医の先生には、
『そんな事言っていたんですね。母は薬剤師なんです。若い頃は横浜の国立病院で勤務していたそうです。』と応えました。
そう当然母は病名こそ知らなかったけど、とっくに余命は感じていたんです。
とっくに……
ごめんね…
最後まで至らない娘で……
最後まで心配させて……
帰りたかっただろうに、不安だっただろうに。
一度は家に連れて帰りたかった。
一度だけでも……
あの大学病院での母と私の半年間は、何だったんやろね……
お母さん ごめんね・・・
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