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藩祖に似たり ~犬侍と憎まれた津藩~ 前編

目次
・はじめに
・鳥羽伏見の戦い
・藩祖、藤堂高虎 前編
・藩祖、藤堂高虎 後編
・津藩の苦悩
・おわりに


・はじめに

津藩。
江戸時代、伊勢に置かれた藩である(現在の三重県津市)。

幕末の新政府軍と江戸幕府軍の戦いにおいて、新政府軍に味方した。
すると幕府軍の人々から「津藩の犬侍」と罵られ、「その行為、藩祖に似たり」「藩祖の薫陶著しい」と皮肉られた。

新政府軍に味方した藩は他にもいくつもある。
だが、なぜ津藩のみがそのように揶揄されることとなったのか。
そこには藩祖・藤堂高虎と徳川家康が深く関わっていた。

今回はそんな津藩の幕末について紹介したい。

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・鳥羽伏見の戦い

幕末。
薩摩藩・長州藩を中心とした「明治新政府軍」は、徳川幕府を倒すため動きだす。
これに対して、幕府軍も薩摩・長州の討伐を決意。
1868年、両軍は京都で衝突した。
鳥羽伏見の戦いである。

兵力は幕府軍の方が上回っていたが、戦いは新政府軍に有利に進む。
幕府軍は周辺の地理に明るくなかったことや、味方の方が大軍であるという油断などが原因であった。

じりじりとおされた幕府軍は後退。
態勢をたてなおす為、橋本(現在の京都府八幡市)に陣を敷いた。
しかし、そこで味方だと思っていた津藩から突然攻撃をされ、幕府軍は大混乱。
そこに新政府軍も追撃をかける。
幕府軍は戦意を失い、総崩れとなった。


津藩は「幕府軍を裏切った」のか?

鳥羽伏見の戦いは新政府軍と幕府軍の戦いであったが、津藩はそうはとらえていなかった。
それぞれの中心勢力である「薩摩藩・長州藩」と、「会津藩・桑名藩」の「私闘」と捉えていた。
その為、「私闘には参加しない」として中立を表明していた。

そんな津藩へ新政府軍の使者が訪れる。
内容は、「新政府軍に味方せよ」という勅命であった。

※勅命(ちょくめい)・・・天皇の命令。天皇は将軍より上の存在であり、最高位の命令である。

勅命には逆らえない、津藩は新政府軍に味方することを決断する。

一方、幕府軍は津藩から攻撃されるその瞬間まで津藩を「味方」だと信じていた。

なぜか。

その理由は250年以上前にさかのぼる。


・藩祖、藤堂高虎 前編

津藩の初代は藤堂 高虎(とうどう たかとら)という。
徳川家康に仕えた戦国武将である。

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彼は家康から大変信頼されていた。
家康は、「徳川家に危機があれば高虎を先鋒として戦え」という言葉を残しているほどである。

また、高虎が家康に「伊勢(三重県)は重要な土地だから自分の死後は徳川家へ献上したい」と伝えると、家康は「藤堂家が伊勢を守ってくれれば何があっても安心だ」と言い、藤堂家の立場を保証した。

さらには3代将軍・家光は、祖父・家康も父・秀忠も信頼していた高虎を、父のように慕っていたという。
1600年代前半のことである。

江戸幕府はこの約束を、250年以上経ってもなお忘れていなかった。
津藩の藩主は高虎から数えて11代目の子孫である高猷(たかゆき)へと受け継がれていた。
それでもなお、あの時の高虎と家康の約束は守られていると信じていた。

それを裏切った津藩に対する幕府軍の動揺と失望、そして恨みは大きかった。


つづく

後編 https://note.com/onimaru_12/n/nb2dfe1edddba