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藩祖に似たり ~犬侍と憎まれた津藩~ 後編

・藩祖、藤堂高虎 後編

高虎にはポリシーがあった。

「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」

これは自身の経験に基づいている。

高虎は1556年、近江(滋賀県)に生まれる。

はじめ近江の戦国大名・浅井長政に仕えた。
浅井家が織田信長によって滅ぼされると、浅井時代の縁を頼って阿閉氏、次に磯野氏に仕えた。
しかしその後、磯野氏のもとを去っている。

次に仕えたのは信長のおい・信澄であるが、上手くいかなかったようでまたも去っている。

その次が豊臣秀吉の弟・秀長であった。
秀長とは上手くいったようだ。
長らく秀長のもとに留まり、秀長が死ぬと後継者の秀保に引き続き仕えた。
その秀保も死ぬと豊臣秀吉に仕えた。
秀吉が死ぬと、徳川家康に仕えた。

①浅井長政 ②阿閉氏 ③磯野氏 ④織田信澄 ⑤豊臣秀長 ⑥豊臣秀保 ⑦豊臣秀吉 ⑧徳川家康

ということだ。

これは別におかしなことではない。
戦国時代において、自分の命をかけるに値する主君を選ぶのは武将の自由であった。

むしろそれだけの大名に必要とされるのは誇るべきことであった。

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だが、戦国時代が終わり江戸時代になると、人々の考えは変わる。

「一生をかけて1人の主に仕えること」が忠義とされた。

主に不満を持ち、別の主へ仕えようとする者は不義とされた。
現代人が想像する「武士道」がこれである。

この背景には江戸時代の平和さがある。
戦国時代には戦があったから武将は多くの手柄をたてられた。

江戸時代は戦がないから手柄がたてられない。
すると「いかに主のために尽くすか」が手柄となるようになった。
それはだんだんとエスカレートしていくのだが、それはまた別の話。

人々の意識がこのように変わってくると、七度主君を変えた高虎は「不忠者」というイメージが付けられてしまった。

すると津藩は歪な視線にさらされる。

「戦国時代の藤堂高虎は不忠者で信用できない」が、「江戸時代に生きる高虎の子孫の津藩は徳川の為に戦ってくれる」という期待であった。


・津藩の苦悩

話を幕末に戻す。

新政府軍から勅命を受けた津藩は幕府軍へ攻撃をする。
これは仕方のないことであった。
津藩以外の藩も、江戸幕府へ恩はあっても、将軍より上の存在である天皇の命令には逆らえないものが少なくなかった。

それでも、前述のように家康に深く信頼された高虎の津藩は、幕府のために戦ってくれると信じられていた。

その為、幕府軍の者らは津藩を「エサにしっぽをふる犬侍」と罵った。
さらには「その行為、藩祖に似たり」、その裏切り行為は藩祖・高虎に似ていると皮肉られることとなる。

そしてこの津藩の行動によって、後世の「藤堂高虎は不忠者である」というイメージが確定してしまった。
ありもしない悪評であった。

ちなみに新政府軍に参加した津藩は、各地で旧幕府軍と戦った。

ところが新政府軍の板垣退助が日光東照宮(家康を神格化した神社)を攻撃しようとした際には、「藩祖・高虎が受けた大恩がある」としてそれを止めている。

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・おわりに

現代社会において、転職が推奨されるようになると定期的に注目される「藤堂高虎」。
「主君を7度変えたこと」が注目されるらしい。

彼は不忠者と言われるがそんなことはなく、むしろ戦国時代においてはヒーローだった。
多くの主の信用を勝ち取り、またそれに見合う結果を残してきたのだ。

不忠者となってしまったのは、江戸時代の「武士道」の考えによるものである。

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人物の評価は後世の人間が決める、と言うが、高虎にとっては気の毒な話である。


おわり