落しもの

11月18日(土) 雨時々くもり

パスケースを落とした。

東神奈川駅の改札を通って、トイレに寄り、電車のドアが閉まった瞬間に気がついた。戻ってみたが、ホームは人混みで溢れて、雑踏の中にパスケースが落ちているとは思えなかった。駅員に尋ねてみたが届け出はない。
落としたSuicaには3千円くらいチャージが残っていたはずだ。クレジット機能付きだが、残念ながらオートチャージの設定はしていない。拾った人が使えるのは中にある3千円だけ。クレジットは念のため破棄した。3千円は惜しいといえば惜しいけど、どちらかといえば探しに探した新しいパスケースがなくなったことの方が悲しい。
たまたまメルカリで見つけた掘り出しもので、このブランドのあのデザインをしたデザイナーはもういないのだ。久しぶりに「素敵だな」と思えるデザインと出会ったのに、非常に短い付き合いだった。

外出先での落し物は時々ある。最後の落し物は金沢観光中になくしたイヤリング。でも、もう7年ほど前のことだ。久しぶりの落し物で現金を落としたのとかわりないが、思っているほど悔しさはない。

これから池袋での待ち合わせだった。時間は自分が指定したし、実は同じ友人との約束に限って遅刻することが多い。今日も間に合わないかもしれないと、少しイライラしていた。いや、本当はもっと前からイライラしていた。思い返せば私のイライラは昨日からだ。

終電に乗らない生活になったのが予兆としてあり、ちょうど渋谷でのバイトが始まって、急に東京の人の多さを体感しているのが理由だ。歩きスマホのおじいさん、自分の友達にしか気を遣わない若い女性、小さい子供を連れているのに、傘を横向きに持つお父さん。都会は歩きにくい。そして、そんな見知らぬ人たちの自己中な振る舞いにとてもイライラする。そして、そんなイライラしている私が一番都会的な歩き方をしていたのだ。

時間はないけど、お腹は空く。ホームでクリームパンを頬張っている暇があるなら、もっと自分の小さな行動に注意を払うべきだったと後悔する気持ちと一緒に、こうした嫌な落し物をすると、その街が少し嫌いになる。印象というものは往々にしてそういうもの。
またも同じ友人に遅刻連絡を告げて、東神奈川駅に戻り、駅員に尋ねたが落し物としての届け出はないらしい。ものの30分以内のことなのに、本当に不思議である。
「東京だし、出て来ないでしょうね」と言う私に駅員は「もしかしたら親切な人がいるかもしれないです」と言ってくれたが、口だけで顔はそうは言ってなかった。はっきりと「残念ですね。都会でそんなことはありません」と書いていた。
悲しいけど、大きな街で落し物をするというのはそういうことである。悔いても仕方ない。落とした自分がわるいのだ。私も都会に住む者としてはその辺り心得出したのだろう。悲しいし、少し気持ちが引っかかるけど、もう諦めている。

これだけ長く落し物のことを書いておきながら、でも私が思ったのは実はそんなことではなかった。

諦めているのに、気持ちに引っかかってくるこの感じ。一昨日、口論になって連絡先を消去した彼氏と同じである。喧嘩の火種は向こうでも、それに油を注いだのは自分で、連絡先も私が消した。私から連絡は取れないが、彼から連絡することはできる。
でも、その後彼からはなんの連絡もない。

全然関係ないけれど、彼からの連絡を心のどこかで待っているという小さな引っかかりと、なくなったパスケースに対するこの気持ちがなんとなく似ているな、と思い当たって、何かふさわしい言葉がありそうで考えていたら、ふと思いあたった。

これは未練だ。諦めているといいながら、どこかでまだ期待しているのがわかって「女々しいなぁ」と落胆した。

今日は落ち込んでばかりだ。都会の歩きにくさに落胆しても、口では諦めを見せていても、「どこからか、もしかしたら」と思って、やっぱりまだ希望が捨てられない。

Butter Toast#1 落しもの
https://www.youtube.com/watch?v=-p38VpTtWkA&t=68s



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