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ある日の日記よりー「日本語に主語はいらない」

日本語に主語はいらない。

私がこの事実に出逢ったのは、一冊の新書だった。

辰野和男『文章のみがき方』(岩波新書)

祖父の膨大な蔵書の山の中からタイトルに惹かれ手に取ったその本は、今までの自分の作文意識を大きく覆した。

美辞麗句で飾ることや巧妙な喩えをしてみせること、それ以前に文章というのは簡潔であることが重要だった。

伝えんとする情報が最短距離で読者に届く文章。そのために削るべきは重複表現やくどい言い回しももちろんだが、和文の最大の特徴は「主語の省略」が可能なことだった。そんなことをしても破綻しないどころか文章がより洗練され美しくなる可能性を持った言語、それが日本語である。

そんなことを思ったのがちょうど半年前。先週、母から一件のメールが届いた。亡き祖父の日記データが復元できたというのだ。

じいちゃんの日記
日本語には主語はいらない、という発見に至るプロセスには今でも感動に近いものがある。
高校時代にあれほど英語に打ち込んだのに、どうしても主語や動詞、補語や目的語、代名詞とその変化に馴染めなかったのだ。
その疑問が霧のように晴れてゆく思いがする。 欧米語とはまったく異なった構文を持っているのだ。
 「雨が降っている」It' reins.とは言わない。同じように「二時だね」をIt's two o'cloc. のようには言わない。この「It」わからないのだ。
 「彼女見ましたか?」なら、「はい」か「いいえ」だけでわかる。
 I love you.にいたっては本来の日本語にはならない。漱石が松山中学時代に、これを「私はあなたを愛しています」と応えた生徒に
「それじゃ日本語になっていない。『月がきれいですね』で、日本人ならわかる」と注意した由。

 橋本進吉、時枝誠記といった大学者たちが作った日本の学校国語文法の説明は間違っているという論は当たっていた。
弊害は現代に及び、金田一京助・春彦、大野晋といった人たちまでこれを基礎としていたのだ。
 問題は「は」と「が」は主格補語であるから始まっていた。
そこに「象は鼻が長い」という反論の切っ先が刺さったのだ。三上章は「日本語に主語はない」と言い切った。

私は、祖父と同居していたわけでもなければ書いた文章をまともに読んだこともない。そもそも高校に入学して間も無い頃に亡くなってしまったのだ、私の中にある祖父との記憶といえば、部屋を訪れると必ず呉れる海苔巻き煎餅の味や、呼吸と同じ頻度で吸っていたhi-lightの匂いくらいのものだった。

今こうして国語辞典という書物に惹かれ、ことばや文章を追いかける人生を選ぼうという時、もっともそばにいて欲しいと願った祖父は、墓地よりもはるかに近くで、大好きなone cupや Hi-lightを片手に鼻歌を歌いながら佇んでいるのかもしれない。

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