メロンソーダとチリドック

「そいつがあれば生きいけると」「思ってる俺はケツの青い」「最新型の…」
ベンジーこと浅井健一の歌う、BLANKY JET CITYの曲「D.I.J.のピストル」の枕である。

このフレーズに徹底的な自己充足感を感じる。汚斑がない白布ではない。ともすればある部分が破れていたり、全体を横断するような徴しが刻まれていたりするかもしれない。それでもなお自分が至上の存在であるような、換言すれば完全性を顕しているような瞬間の感覚――このような感覚をもったことはないだろうか?

生理化学の水準では、生体であるわたしたちは毎瞬毎瞬の代謝によって物質的に変化している。また、心理学的ないい方をすれば、常に周囲の環境との関係において生きるうえで認識に何ら刺激を受けないでいるということは不可能だ。このようにわたしたちは絶えず動き、変化し続けている存在である。質的に動的であることは、有機体的存在であることの上での宿命である。(なお、厳密にいえば非有機体的存在、例えばコンクリートでできたビルやそこに嵌め込まれた窓ガラスやビルを構成する支柱も有機的であるといえる可能性がある。「有機的」とは"organic"の訳語だが、"organic"であることは全体の部分同士が互いに連関しあっている状態を指すからである。)

動的であることの包摂する範囲は甚だ広範である。わたしたちの日々の獲得という、正(プラス)方向の作用(動的な働き)がもっとも明示的だろう。これにはあらゆる物質的なそれや精神的なそれ、例えば何かを買ったりすることや、学んだりすることなどが含まれる。単純にみれば、バッグを購入すればわたしたちの所有物の一覧に場バッグが一つ加算されるし、これまで知らなかった概念を知れば、わたしたちの知識は拡張する。

他方、このように正方向の作用があるのであれば、対極である負(マイナス)方向の動力というものはあるだろうか。先ほど「獲得」を例にして正方向の作用を考えてみたのとは反対に、「喪失」について考えてみてはどうだろうか。
例えばわたしがいま持っているマグカップを手から落とし、粉々に割ってしまったとする。そうなるとこの「マグカップであったもの」はもはや「マグカップ」としてコーヒーやミルクを入れる容器としては機能しないから、わたしの所有物一覧からは削除されると考えることができる。この一覧からマグカップが消え去ったことは、わたしにおけるマグカップの喪失体験として位置付けられるかもしれない。

しかしここには注意が必要である。確かに「マグカップ」は「マグカップであったもの」になってしまった。しかし、これは厳密に考えればマグカップが別様・別質のものに変化しただけと考えることができるからだ。そして「マグカップであったもの」が、その姿かたちを変えた後でもわたしにとって何らかの価値を持っていた場合、このときわたしは厳密に「喪失」をしたとはいうことはできないのではないと考えられる。なぜなら「マグカップ」が占めていた場所は「マグカップであったもの」によって変わらず補填されているからである。

このマグカップの破損を、「マグカップ」から「マグカップであったもの」への変化と捉えたとき、第一にはマグカップ自体が代謝したということができる。さらにいえば、この「マグカップ/であったもの」をわたしの所有物一覧におけるひとつの項目として、つまり「わたし」なるものを構成する一部分であると考えるならば、マグカップの変化はわたしの一部分の変化ということになる。したがってわたしにおける負方向の動力、つまり喪失という体験はたんなる仮象、わたしの思い込みであり、マグカップというわたしには外的と思われるものの変化はわたしという存在の動的な作用に他ならない。そしてこのように考ええたとき、あらゆる負方向の作用、喪失は、それがもっていた減算的性質を剥奪される。喪失という現象がこの世界から斥けられるのである

わたしたちという有機的存在者たちは常に代謝を行って存在している。この代謝はなにも生理学的なものに限ったことではない。「わたしたちなるもの」を構成する外部的事物、わたしたち自身の延長ともいうべきものの変化もまた、動的に存在するわたしたちの代謝である。
冒頭で引用した浅井健一の歌詞に感じられる徹底的な充足感、いうなれば「無敵感」は、自らの「ケツの青い」こと怯むことなく全面的に肯定されているように感じられる。そこに喪失の影はなく、ただ力強く生きる人間の姿がありありと謳われている。
有機的存在者であるわれわれ人間の動的性質を積極的に考えれば、われわれは何に臆することなくメロンソーダとチリドックさえあれば生きているのかもしれない。

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