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人生ハードモード崖っぷち弱者女性の私が勝ち組婚するまでの苦労①

私は「持たざる者」だ。
飛び抜けた才能、美貌、特技はおろか、ごく普通の家庭環境すら与えられなかった。
今で言う親ガチャ外れたというやつだ。

2Kの粗末な社宅に住む工員の子として生まれ、父親はろくに金を入れず女と遊び回り母を殴り、物心つく頃にはいなくなった。

残された母は掃除婦や事務員として働き必死で私達を育ててくれたが、生活苦から暴力や暴言、心中未遂もあった。それを間近で受け止めるのは長女である私だった。

生活の苦しさに加えて、私は周囲が手を焼く問題児だった。普通の子に比べて落ち着きがなく粗暴、大人に対して遠慮なく生意気な発言をしてキレさせ、学校からの苦情が絶えない。頭を下げ続けた母には申し訳なく思う。

しかし私も辛かった。周りの女子のように笑い合い仲良くする方法がわからず浮き、いつも一人だった。自分がADHDらしいということは大人になるまで知らなかった。
性格が悪い子。で片付けられ非難され、障害と気付かれることはなかった。

中学3年生になり進路を考える時期になったが、貧しい母子家庭で大学進学などできるわけもなく、高卒で働いて家計を助けることが既に決まっていた。将来に夢も希望も何もない、ただ生きているだけの人生。これからも死ぬまでそれが続く。勉強などしても意味がない。投げやりな高校生活をだらだらと続けなんとか卒業。小さな会社で事務員として働くことになった。

実の父に捨てられ周囲の大人からも嫌われ愛に飢え、常に生活に余裕がなく楽しみが少なく暴言や暴力の絶えない不安な生活、それに加えて発達障害。何重苦だろう。

自分の人生は自己責任と言い放つ人ばかりだが、私の人生せめてなにか一つだけでも違えば少しは救いがあった。せめて健全な精神、せめて健全な家庭。

しかし与えられなかったものは仕方ない。
最低な人生を終わりを迎える日まで続けるしかなかった。

続く




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