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私が、死際に感じたこと

段々と近付く死、

当たり前にできていたこと、ただ起き上がることすらも難しくなっていく中で、

私は大切なものを一つずつ、捨てていった。







2020年11月7日の夜、

私は体験的に死んだ。

”体験的に死ぬ”という、

少年漫画の本格派投手もびっくりな、

ドストレートな名前のイベントに参加したのである。


死に近づいていくストーリーの中で、

私は21個の大切なもの、こと、人を捨てていかなければならない。


捨てるということは、

そのものとの永遠の別れであり、二度と再会できないことを意味する。

胸にこみ上げる葛藤の濁流を飲み込み、

一つひとつの大切なものを握り潰していった。







小さな紙に描かれた大切なものは、消えいって、消えていって。


大切なものたちが広がっていた賑やかな机は、遠い昔の思い出のようで、

残された、落ち葉みたいな小さな紙たちからは、寂しさが香っていた。


残ったのは、

「物思いに耽ること」「人の少ない自然」「母」「兄」。


そこからは苦しかった。

ごめんなさいと小さく呟きながら、握り潰すのを躊躇いながら、

最後に残ったのは、”母”。


喧嘩もしたし、合わないところもたくさんだったけれど、

病に伏せる私の横で、最後まで寄り添ってくれたのは、母だった。

感謝の気持ちでいっぱいになりながら、

愛してくれた母の温かみを感じながら、死んでいった。


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ワークが終わり、

私は少しボーッとして、

少しずつ現実に戻ってきた。


成功者は言う

「人生において何を得るかが大切なのではない、どれだけ与えるかが大切なんだ」


私は感じた

「何を与えるか」すら、死の淵においてはどうでも良いのだと。


朦朧とする意識の中で、

今にも消え入りそうな魂の炎で、

たくさんの何かを、誰かに与えようという人はどれだけいるのだろう。


ぬるま湯のように心地よい死際で、

私が感じたのは、ただただ、

私を包む母からの愛と、

胸に湧き上がる感謝という暖かさだった。







人と人、人と物、人と世界との間に

「居てくれてありがとう」という、感謝の気持ちがあればそれで良い。

「居てくれてありがとう」という、愛があればそれで良い。


目の前の人を、

物を、

世界を、

抱きしめられたなら。

それだけで胸はあたたかい。

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