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【企画投稿】定年を意識し始めた頃の私へ #10年前のわたしへ

 今から十年前、私はIT業界の外資系会社に在籍していた。もともと、九州出身ということもあり、年齢とともに故郷に近い方がいいなと思い始め、2005年に子会社への出向の話を引き受け、管理職として広島の地での仕事を開始した。初めての場所、初めてのお客様、初めての仕事仲間たちと初めて尽くしだったが、順調とは言えないまでも広島での生活も八年が経過し、なんとか仕事を継続できていたのが十年前あたりだ。それまで何度かの帰任の打診も断って子会社で働き続け、子会社の中での地位は確立していたころである。

 年齢は54歳になり、55歳目前というころだ。そろそろ、自分自身の定年も視野に入れなければならない時期に差し掛かっていた。しかし、日々の仕事の中では部下の定年退職の準備やお客様との間の契約変更の調整も目まぐるしく発生していおり、自分のことに時間を割く余裕もそれほどなかった。

 ふと我にかえり、60歳で定年を迎えるにあたり、選択できる道はどれだけあるのだろうということを考えた。その当時は、出向役員だったので、親会社の社員という立場だ。選択肢は、それほど多くの道があるわけではなかった。

  1. 定年後雇用延長で親会社に戻って社員として65歳まで仕事をする

  2. 子会社に転籍して役員となり62歳の誕生日を含む年度終了まで仕事をする 

  3. きっぱりと60歳の誕生月で退職する

 選択肢としてはこの三つだった。いずれにしても意思表示を58歳になる前に会社に提示する必要があったが、当時は定年後やりたいと思っていることは特に持っていなかった。本社にいた頃は「定年したらキャンプ場でも開きたいな」という夢を描いていたが、その後ブームが去り、夢も忘れてしまった。なぜか最近キャンプブームが再来しているようではあるが、今となっては未練も後悔もない。

 さて、脱線しそうなので話を戻そう。三つの選択肢のうち、3番目は不安が大きいということと、当時大きな政治的とも言える人事が発生していたということもあり、視野には入ってなかった。当時は、仕事をやめた後のことまで考える余裕はなく、仕掛かっている変革や組織の安定化に向けた施策に頭を悩ませていた頃だったと思う。1番目を選択すると、出向という立場では仕事ができないということと管理職は続けられないという制約が分かり選択肢から外れた。結局、消去法により2番を選択することになる。最終的に決断したのは57歳の終わり頃だった。

 もし、そんな時代に戻って行けるならば、私はその時の私に何を伝えるだろうか。九州に戻れて「小説」を書く生活をしているよ。収入は無くなったけど幸せな生活を送れているよと伝えるだろうか。いや、きっと違うような気がする。私自身は、壁があるほど挑戦したくなる性格なので「十年後は心配しなくていいよ」というメッセージを受け取ってしまうと「じゃあ、それほど頑張んなくてもいいか」と思ってしまうかもしれない。未来はわからないから挑戦するのである。だから、私は十年前の私に会えるとしたらきっとこう言うだろう。

「今頑張らないと未来の私は消えてしまうよ。選ぶことになる定年後の働き方を自分で決定し、自分を信じてこの会社でやれることを時間の許す限り挑戦してくれ。その先に、今の私があるのだから。私は何も教えないから」

 未来の自分が、小説を書いていることになろうとは、当時の私は夢にも思っていないし、そんな自分の人生を想像したこともなかった。ましてや福岡に引っ越しをすると言うこと自体が計画すらしていない時であり、コロナもまだ世の中で発生していなかった。コロナ発生に伴いリモートワークが普通となったため、引っ越しすることができるようになるという未来の自分たちの身に降りかかる変化を知らなかったからこそ、最後の瞬間まで走り切れたのだと思う。

 十年前というか過去の私が頑張ったから今の生活があるのだが、十年前の私にではなく、あえて今の私に「ご苦労様でした」と言ってあげたい。過去の自分に未来のことを教えるより、過去の行動に対して今の自分に感謝した方がこれからの残り少ない未来の自分にも励みになりそうだから。

おわり


以下の倉田さんのnote企画への投稿です


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#10年前のわたしへ #ノンフィクション #エッセイ

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